城データ
城名:奥谷城
標高:82m
比高:60m
築城年:戦国時代か
城主:不明
場所:鳥取県鳥取市国府町宮下
北緯東経:35.483891/134.270074
攻城記
看板がぽつんとある。
城主不明。
目の前のこんもりとした山が城山。
比高は60mほどでサクッといける。
最初の削平地。
細かい曲輪が多いのが特徴。
このような削平地は多い。
河原石、近くの川から投石用で持ってきたものだろう。
更に上がって行く。
本丸付近。
自然石か加工されたものかは不明。
本丸の曲輪。
眼下を見下ろす、草木がなければ眺望も良い。
再び降りていく。
奥谷城の矢竹。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
奥谷に古城の存在することは『因幡誌』に記されているが、所在は明記されていないし地元での伝承も絶えて いる。
城郭遺構を検出したのは池田家墓所前面の堤東側、字「ヒバ谷」であった。宇倍神社社殿背後の尾根とは 谷を隔てて相対する。
標高八一・七メートル(比高六〇メートル)で、深鉢の碗を伏せたような山である。山脚 を南から北に池田家墓所(旧光仲山清源寺)境内に至る旧参道が走っている。
木立の切れる辺り、右手山腹には 興禅寺歴代住職(清源寺兼帯)の墓碑があるが、城はこの背後の谷隘を登りつめた尾根の南側に残る。周辺は古 墳地帯で、北側稜線上には墳頂を削平された円が数基認められた。
尾根を東へ下れば線刻画で知られる奥谷四 日へ至る。大規模な伐採で跳望には恵まれたが、倒木が放置され計測は束縛された。したがって正確な規模、辺縁部の形状は把握できなかった。
プランは飯山城に酷似する。飯山が改変されている以上、大いに参考とすべきである。旧参道を臨む谷隘の山 脚近くに三段の平坦面が認められた。谷道は狭く、空堀状に屈曲しながら尾根へ立ち上がる。
谷底に向かって三 条の堅堀が城山中腹から穿れているが、最上部のそれは谷道から分しており、山頂北東の凹地形に屈曲して到達している。
屈曲部分は狭く、虎日部を思わせる。 この凹地と山頂との比高差は七メートルで、切立っ ている。またこの竪堀の反対斜面には九X八メート ルの平坦面がある。
虎口に向かう寄手の背後を制す る一郭といえる。 主郭(三〇X二〇メートル)には北に一段低くし 字状の曲輸が西に回り込む。全体的に巨大な円境を 転用したような観がある。
「因幡誌』が安永年中に 村民が古銭を掘り上げたと伝える井戸は、主郭の東 側二段下った曲輪の北端にある。鞍部の堀切が延進 していることもあり、上段に連なる土塁により井戸 を隠そうとしている。
主郭を中心にほぼひ字状に取 り巻く各曲輪は、飯山城同様、中途でとぎれるか段 差がつけられる。展望は極めて良好で、東に宇倍神 社の頭越しに飯山城、玉鉾方面を望み、西は爵山を 経て本陣山・久松山・布施天神山から湖山池を見る ことができる。
また南へ眼を向ければ、武田氏の居 城鴨尾城を初め遠く中国山系を視野に収めることができる。目近には面影山・今木山の秀麗な姿が、また北方には五本松山頂が迫っている。そしてさらに南側山脚 には一五メ一〇メートルの平坦面がある。
谷の分岐点に当るところから、関連遺構と考えられ山下に向かって切 岸を形成している。東端からは養鶏場の谷へ向かう一部空堀状の通路があり、山頂へ向う通路の一部がみとめら れる。登城路の一つと考えられる。堤を隔てた舌状台地は居館部に適する地形で周囲は切岸となっている。将来 の参考地である。
『国府町誌』より引用。
所感
●城自体は眺望もきき四方に睨みをきかせるが出来る立地。
●城の特徴として階段状になっている曲輪でより階層的な造りになっている。
●逆に堀切などは少ない。
関連URL
参考URL
参考文献
『国府町誌』
『鳥取県の地名』
公開日2021/03/14