城データ
城名:福知山城
別名:横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
標高:30m
比高:20m
築城年:1579年
城主:横山氏、明智光秀、小野木氏、有馬氏など
場所:京都府福知山市内記
北緯東経:35.296783/135.129686
攻城記
福知山城遠景
堀。
麓までくるとその石垣に圧倒される。
転用石らしい。
この壮大な石垣に見ててワクワクする。
この高石垣も明智光秀が築城した当時のものか。
福知山城石垣ベストアングル!!
発掘調査で出てきた転用石。
そのまま裏に回って進む。
このように裏から見るお城もいい。
お城といえばこの「折れ」がないとしっくり来ない。
さあ、本丸に近づいてくる。
頂上部に到着。
天守裏側。
趣のある城郭。
転用石ゾーン。
かなりの墓石が転用石として使用されている。
天守閣に到着。
福知山城が明智光秀によって築城されたのが分かる。
「豊磐井」という井戸。
深さが50mあり、日本で一番深い井戸(城郭にある井戸で)
※海抜よりも更に深い。
城内に入っていく。
なかなかの景色。
台地に築城されたのが分かる。
降りていく。
下城。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
福知山市街のうち旧城下町の南方にあたる東西約五〇 〇メートル、南北約二〇〇メートルほどの朝暉ヶ丘丘陵 (旧名横山)にある。
別名臥竜城。東方は由良川と土師川が 自然の外堀をなす。
この地には中世後期、当地方に勢力をもっていた塩見 氏(のち横山氏を名乗る)の居城があり横山城とよばれた。
この城について「丹波志」は「荒木山城守義村(中略)掻上ノ 築城住居ス、荒木義村八按丹陰記是亦元来波多野家ノ臣也、貞治年中山名叛逆ノ時随之、山名不達本意討死ス」 とその前史を記し、続けて「其後塩見大膳ト云人再築シ テ居之、改姓シテ横山大膳ト云」と記す。
天正年間(一五七三~九二)には塩見大膳大夫信房が横山 城に居城していたが、天正七年八月、丹波の諸城を攻略 していた明智光秀に攻められ落城。
光秀はここに城代として藤木権兵衛・明智秀満を置いた。
同九年四月光秀は 丹後宮津の城主細川忠興に招かれて天橋立見物に赴くが、 途中この城に寄った。
随行した茶人津田宗及の日記に 「四月十日朝福地山にて明智弥平次殿之振舞、七五三ノ膳 也」とあり、「福地山」の名で記される。 光秀はこの城を奥丹波の要衝として重視し、近世的な 城塞に改修したらしく、天寧寺文書の歴代城主系図記には「光秀縄張リシテ」と記し、「丹波志」も「明智光秀改 縄築城ト云リ」とする。
近世福知山城の原型は光秀の時 に築かれたといえる。
福知山城の名もこの時に改めたら しいが、「言経卿記」天正一一年一〇月三日条に「丹波国 横山城衆」とあるから、しばらくは横山城の名も使われ ていたようである。
光秀の時代は短く、わずか三年足らずで終わるから、 福知山城の建設がどの程度進んでいたかは不明である。
ただ今日残る石垣には野面積みという古い形式が残り、 天正期の遺構とされ、中世の宝篋印塔や五輪塔の台石な どの使用が認められる。
杉原家次・小野木重勝など、その後に豊臣秀吉より任じられた城主は短く、本格的な城 郭は慶長五年(一六〇〇)徳川家康によって六万石を与えら れた有馬玄蕃頭豊氏の時代に整備完成したものといわれ る。
城の歴史
●小笠原長清の後裔である塩見大膳頼勝が現在の地に築城(当時は搔上城という)
●頼勝の子大膳頼氏が姓を「横山」に改める(当時は横山城という)
●天正年間には頼氏の子大膳信房が当城にいる。
●天正7年(1579):明智光秀に攻められ落城、信房自刃する。
●天正8年(1580):この頃城代として藤木権兵衛と明智光満をおく。
●天正10年(1582):本能寺の変にて豊臣秀吉方に攻められ落城。
●天正年間には秀吉の家臣である小野木重勝が3万石で入城し城主となる。
●慶長5年(1600):関ヶ原の戦いにて小野木重勝は西軍に属す、東軍の細川忠興が攻めて落とす。
●その後有馬豊氏が6万石で入城。
城主家系図(明智光秀以前)
所感
●明智光秀築城の城であるが、実際には有馬氏が大改修したと思われる。
●高い石垣には圧巻で強固な城であったことは間違い無い。
●転用石で宝篋印塔の基壇部分の石が多用されているが当時はそのようなものであったのかもしれない。
参考URL
参考文献
『京都府の地名』
『日本城郭大系11』
『明智光秀の生涯と丹波福知山』
公開日2021/03/13