城データ
城名:掃部城
標高:310m
比高:30m
築城年:戦国時代か
城主:野間掃部
場所:広島県
北緯東経:34.293759/132.584571
攻城記
中に踏み込むといきなり平削地を発見。
ただしこれは後世のものと考えられる。
直登するとすぐに曲輪にとりつくことが出来る。
広さはそこまで広くはないが曲輪がしっかりと残っている。
土塁跡か
本丸。
本丸の周りにも曲輪がしっかり残っている。
小曲輪の集合体が掃部城の特徴。
小曲輪から本丸を望む。
別の曲輪。
麓には川があり天然の堀の役割をしている。
『芸藩通志』から加筆修正。
open-hinataより【掃部城】
余湖図【掃部城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
北から南に延びる丘陵先端部を掘り切って独立させて城としている。
全体的に急傾斜地工事により削られており、破壊が著しい。
城の遺構は、郭4,堀切1からなる。
最高所の1郭は現状で12m×6m程度の規模であり、こから南へ1〜2mの段差で三つの郭を配している。
1郭の北側には深さ約2mの堀切を設けており,背後の備えとしている。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
城の歴史
『芸藩通志』に城主が野間掃部と記載されている。
恐らく野間氏の一族で官位名で掃部守を名乗っていた人物だと推測できる。
毛利氏に滅ぼされた為一族の野間氏も滅亡したのか、庶流の為落ち延びたのかは不明。
所感
●丁度麓を歩いていた方に話を聞くことが出来た、昭和30年代までは山も整備されており子どもの時は良く山で遊んだらしい。
●城の規模としては大きくは無いが、小さいながらも、小曲輪が何個がある。
●また連続堅堀もあり、防衛施設としての最低限の状態になっていたようだ。
関連URL
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『日本城郭大系13』
公開日2021/02/06