城データ
城名:千代城(せんだいじょう)
標高:38m
比高:30m
築城年:戦国時代
城主:白井萬五郎
場所:広島県安芸郡府中町千代
北緯東経:34.382613/132.502404
攻城記
国道から少し東に入った住宅地に看板がある。
看板
千代城跡
標高38.2メートルの千代山頂に築かれた中世白井氏の城跡。
文政12年(1829)編葉の『芸藩通恙』の府中村絵図に「千代山・古城址」と記されている。
当時、鹿籠山と丘続きであったが、明治時代に山陽鉄道(現R山陽本線)敷設により分断された。
千代城は、白井備中守の居城(出張城)の支城とされ、白井一族の有力武士が武田氏の水軍(警固衆)として、黄金山に築かれた仁保城(城主自井越中守義胤)とともに広島の海上警護にあたった。
しかし、後年、 仁保城は大内水軍に加わり数々の武功げて大活躍する一方で、武田氏方にあった千代城は、大内・毛利軍との合戦に敗れたが許され、白井備中の子、萬五郎が城主となった。
府中町教育委員会
歴史の散步道
1954年当時
まだ城山が残っていた。
城の歴史
出張城の城主であった白井備中守が破れて出張城からこの千代城に移る。
天文9年(1540):安芸武田氏滅亡する、このころ落城か。
「芸藩通志」には出張城府中村にあり、白井氏数世據守す、天文年間、大内氏に攻められ、城落るという、陶殿陣ば、陶が留営の地なりという。記載されており、安芸武田氏の滅亡とともに出張城白井氏は退去したものと考えられる。
追記
ただし、「芸藩通志」には千代山の項に、「出張城落城後、白井備中が子萬五郎は大内氏に降参せしゆへ、当城を守らしめが後毛利に滅ぼされると云う」と記載がある。
これは
天文20年(1551):大内義隆が家臣の陶晴賢に謀叛をさせられ自刃、これ移行白井氏は陶氏の家臣となったと考えられる。
天文23年(1554):毛利元就が陶晴賢と決別する、当時仁保城主だった白井賢胤は陶氏の家臣であった為、毛利氏から攻められて追われる
が降伏して毛利家臣となる。
しかし、大内陣営に残っていた白井備中守系統が毛利と抗戦する中で滅ぼされたと考えられる。
※抗戦するというよりか、毛利氏に一方的に攻められて滅亡したのかもしれない。
城主家系図
open-hinataより【千代城】
山が崩されており現在残っていない。
しかし、削平された部分は残っている。
戦後すぐの航空写真。
既に壊変されている。
現在は山も崩されて宅地化されている。
『芸藩通志』に加筆修正。
千代山古城跡とある。
明治時代の地形図。
安芸武田氏滅亡で出張城から千代城に移され、そして毛利氏に攻められ滅亡。
地形図の田畑は当時海であった為、海上に突き出た岬にあった城と考えられる。
所感
●戦国時代の選択肢のなかで常に負け組に与した為に歴史の中に消え去った一族。
●仁保城の白井氏(越中家)が最終的に毛利に属したのであれば白井氏としては存続したことになる。
●明治以降の開発及び、戦後の大開発で跡形も無いが、古い地図と現在の地図、古い記録から探ってみた。
関連URL
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県の地名』
更新日2021/01/24