城データ
城名:堀城
別名:モウ城
標高:52m
比高:50m
築城年:戦国時代か
城主:警固屋氏、宮原氏
場所:呉市警固屋町6丁目
北緯東経:34.203186/132.542781
攻城記(堀城)
堀城遠景
現在城域は宅地化されている。
麓に看板有り。
かなり急な斜面。
後世の工事でこうなったと思われる。
上から見た風景。
呉衆の一員としての役割を担っていたのが分かる。
平削地。
宅地化にて平削地化したのかもしれない。
完全に改変されている。
城の概要
城跡は,休山山系から南西に延びる尾根の先端部,呉湾から音戸の瀬戸に入る地点に位置している。
宅地造成や急傾斜地崩壊防止工事により破壊が著しい。
室町・戦国期,防長の大名大内氏の水軍として活動した警固屋氏の居城と思われる。後,小早川領国下では宮原氏が拠ったらしい。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
open-hinataより【堀城】
宅地化されており、改変が激しい。
城データ
城名:小浜山城
別名:小浜城
標高:34m
比高:31m
築城年:戦国時代か
城主:警固屋氏、宮原氏
場所:呉市警固屋町8丁目
北緯東経:34.198281/132.541154
攻城記(小浜山城)
小浜城全景
現在は貴船神社になっている。
最上段が神社で1つ下がっている平削地は住宅地になっている。
江戸時代に神社になったようだ。
本丸跡にある貴船神社。
城の由来では野間水軍とある。
隣の音戸は野間氏が所領していた時期もあり、尼子氏が侵攻した時に一時的に野間氏がこの小浜城を占拠したのだろう。
音戸瀬戸。
向こう側は野間氏や乃美氏の所領であった。
この部分にも曲輪があったと考えられる。
麓から見上げた風景。
open-hinataより【小浜山城】
余湖図【堀城・小浜山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
概要
城跡は,呉湾から音戸の瀬戸に入る地点に位置し,北西に延びる尾根の先端部を利用して築かれている。
神社,宅地,道路,急傾斜地崩壊防止工事により原状はとどめていない。
しかし,神社境内が1郭,その前方の宅地が2郭,さらに10m下の宅地が3郭と推定される。
警固屋氏の城と考えられる。
警固屋氏について
「呉衆」として山本氏や檜垣氏と共に小領主連合を形成し、周防の守護大名大内氏に属した。
山本氏は伊予国から移動してきたが「警固屋氏」に関して,近隣の能美氏と同じく在地名を名字としており、平安末期以来の安摩荘荘官の系統を引く在来系小領主であったと思われる。
音戸瀬戸に面する堀城を居城として警固屋を支配し、大内氏から広にも給地を与えられていた。
応仁・文明の乱と呉衆
応仁元(一四六七)年、応仁の乱に際して、山名宗全(持豊)の西軍に応じた大内政弘は、五月一〇 日、山口を出発し、周防・長門(山口県)・筑前・筑後(福岡県)・安芸・豊前(大分県北部、一部福岡県)石見(島根県西部)・伊予八カ国の軍勢を率いて上洛した。
陸路をとる上洛軍は豊田・杉率いる周防勢と石見衆、海路をとる上洛軍は総大将大内政弘のもと山名小弼・陶弘房・杉・内藤ら率いる周防勢に安芸・九州衆、河野率いる伊予衆と長門衆の総勢五〇〇隻の大船団であり、七月二〇日、兵庫に 上陸し、二三日入京した。
この海路上洛軍の先陣(=水先案内・護衛)を勤めたのが、能美・倉橋・呉・ 警固屋の海賊衆であった。能美・倉橋・呉・警固屋の海賊衆とは、「三ヶ島衆」にほかならなかった。
在京中の政弘は、文明六(一四七四)年ごろ、東西条鏡山城代官安富弘範に対して倉橋多賀谷筑前守弘重を使者にして増援軍を率いて上洛す るよう命じており、またこの時期、能美 若狭守重秀の在京活動も確認できる。
呉 衆の活動を語る直接の史料はないが、 「三ヶ島衆」として多賀谷氏・能美氏と 共同行動をとっていた呉衆が、政弘在京 中の一一年間、京都での合戦に参加し、 また京都と周防・安芸との海路をとる連 絡の使者となって活躍したことは想像に 難くない。
文明九(一四七七)年一〇月、大内政 弘は、防・長・筑・豊四カ国の守護職と東西条などを安堵されて帰国した。
呉衆ら「三ヶ島衆」は、政弘帰国のさいにも先陣を勤めたのではなかろうか。
同月、筑前から少弐氏の勢力を駆逐した大内軍は、 三日、麻生家延の籠もる豊前花尾城を、問田弘衡・内藤弘矩らに攻略させたが、花尾城を攻撃した内藤軍のなかに「呉・蒲刈・能美三ヶ島衆」がいた。
呉衆の警固屋掃部助忠秀はこのときの勲功に対し、一 三日、「筑前国穂波郡吉隈十石地・嘉摩郡米房八町五反地・同郡薦田村金丸十石地·同郡片島一町地」 を新恩地として給与された。
このように大内氏の筑前侵攻で「三ヶ島衆」が大いに活躍したことがうかが われる。
尼子氏の安芸侵攻
永正10年(1513)年頃から尼子経久が勢力拡大し安芸国まで支配下に治めていた。
尼子軍の南下を機に矢野の野間氏は積極的に尼子方につき、一気に呉地方を支配下におさめた。
本拠の呉・警固屋を奪われた「呉衆」は、尼子方に降伏することなく大内方にとどまった。
大内氏の反撃
その後、大内氏は大永4年(1524)、ようやく佐西郡廿日市桜尾城の厳島神主家と神領衆を従属させ、本格的反撃の準備を進めた。
小早川弘平は、6月5日、神領方面に派遣していた賢勝に対し、賢勝指揮下の警固衆を増強するために「倉橋右馬助」・「能美兵庫助」「長浜」「桧垣大四郎・神兵衛両人」に各1艘、自ら乗船して出陣させ、小早川からも1艘出陣させた(県史V)。
大永5年(1525)3月に安芸国人衆の中心、毛利元就を帰服させることに成功した大内義興は、尼子方に対し全面攻勢に転じ、大内軍司令官陶興房は、尼子方国人衆攻略のため、各地に転戦する。
4月5日・6日両日、陶軍は廿日市の本陣から渡海し、矢野の野間氏を攻撃した。
同じ日、の作戦に呼応して瀬戸城の賢勝率いる小早川警固衆・呉衆らは呉方面から野間方を攻撃するため呉千束に上陸して「呉千束要害」(海上自衛隊呉地方総監部の掘切をはさんだ城山)を前進基地とし、集落(呉教育隊、市民公園=練兵場。近世の呉町)に火を放ちこの方面を制圧した(県史V)。
この戦いで呉から野間勢を排除した呉衆「山本氏」・檜垣氏・警固屋氏らは、ようやく旧領を回復した。
厳島合戦後前夜
天文23(1554)年5月、毛利元就は陶晴賢との提携を破棄し、一挙に佐東銀山・己斐・草津・桜尾の諸城及び厳島を占領した。
晴賢の石見攻めに瀬戸賢勝の配下として参加していた呉衆・多賀谷氏・能美氏の「三ヶ島衆」は、毛利氏に人質を差し出していたが、吉見攻めの陣中にあった山本四郎賢勝は、7月、人質を見殺しに「呉惣衆中」を率いて陶=大内方に立つ意思を表明した。
倉橋・蒲刈両多賀谷氏、能美氏も同調した(県史V)。
一方、瀬戸(浦)賢勝は、8月2日の津和野合戦を最後に戦場を去り、瀬戸(音戸町)に帰った(『閥閲録』69)。
長い間、ともに戦った浦賢勝と三ヶ島衆は、ここで決別したのである。
以後、賢勝は瀬戸城を拠点に、これまで味方として戦ってきた呉衆ら「三ヶ島衆」と、敵として戦うことになる。
「三ヶ島衆」の大内=陶方への復帰に対抗して、8月、小早川隆景は、賢勝の帰国を待たずに呉地方を接収して呉・瀬戸に要害を建設した。
呉衆は帰るところを失った。
9月、帰国した賢勝・宗勝父子が率いる小早川警固衆、瀬戸要害・呉要害を基地に、同じ時期に帰国した陶方、白井賢胤・「三ヶ島衆」らが活動拠点とする能美島周辺に出没して敵船を攻撃し、同29日、毛利方阿曽沼軍とともに総攻撃をかけ、能美島を占拠した。
このとき能美氏は降服した(『閥閲録』48ほか)。
能美島を失った呉衆・多賀谷氏ら陶方警固衆は、10月、弘中新四郎にかわって「警固奉行人」(大内水軍総司令官)に任命された仁保島の白井賢胤の指揮下で活動することになった。
翌24年=弘治元年に入ると、白井賢胤率いる陶方警固衆は制海権の回復をめざし広島湾頭で活発活動を展開する。
「正月1日佐西郡草津、同佐東川内矢賀·尾長、 同18日佐東浦河口、3月15日呉浦を襲い、呉浦では小早川方船を1艘討ち取っている(県史V)。
この頃、矢野の野間隆実が毛利氏にそむき、3月晦白、白井(本拠を失った呉衆も加わっていたであろう)・野間連合軍は仁保・海田で毛利阿曽沼軍と合戦して敗れ、4月11日、隆実は毛利軍に矢野保木城を攻められ降伏した(『陰徳太平記』ほか)。
5月、小早川隆景・瀬戸(浦)宗勝の命を受けた有田拾次郎が多賀谷氏のもとに降伏をすすめる使者として派遣され、この降伏勧告を受け入れて小早川氏の軍門に降った(『閥閲録』168)。
この降伏勧告を拒絶した倉橋多谷氏は、8月、圧倒的な小早川軍の攻撃をうけて丸子山城は落城し、多賀谷興重は城を枕に討ち死にした。
瀬戸(浦)氏率いる小早川警固衆は倉橋賀谷氏を支援していた白井賢胤率いる陶方警固衆を大いに破り、追い払った(県史V )。
以上の厳島合戦の前哨戦ともいえる広島湾・呉湾での毛利方・陶方警固衆の一連の海戦では、瀬戸(浦)賢勝・宗勝が指揮する小早川警固衆が、白井賢胤・山本賢勝が率いる陶方警固衆を圧倒した。広島湾の制海権は毛利方が抑えたのだった。
これによって「呉衆」は瓦解したと思われ、「呉衆」の一員であった、警固屋氏も没落したものと考えられる。
また、弘治三年(一五五七)四月、毛利軍に追いつめられた大内義長と重臣内藤隆世が長府勝山(山口県下関市)に包囲されたとき、隆世自刃の介錯をつとめたのが「警固屋と云ふ者」であったという。
その他の警固屋氏
小早川家証文の中に、天文10年(1541)正月三日吉田手負注文があり、その中に「警固屋小次郎」が矢疵一ヶ所(右のすね)があることが記載されている。
また、『毛利家文書』の中に永禄13年(1570)出雲国牛尾要害合戦頸注文があり、そのなかで阿曽沼家臣として「警固屋市介」が頸1つ捕っている。
熊野城
警固屋氏以降
警固屋氏が没落した後には小早川家臣の「宮原隼人助勝実」がこの地域を支配することとなった。
宮原も呉の地名であり、警固屋氏後に在地名をとった小領主がこの地域に存在したこととなる。
城主石高
文明九(一四七七)年頃に警固屋掃部助忠秀が勲功に対して所領を賜っている。
具体的には
●筑前国穂波郡吉隈10石地
●嘉摩郡米房8町5反地
●同郡薦田村金丸10石地
●同郡片島1町地
を新恩地として給与された。
それ以外にも大内氏から警固屋の他に「広村」の地を賜っている。
中世は堀城も小浜城も真下は海であり、航海している船の監視も行っていたと思われる。
他の呉衆はこちら
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参考URL
参考文献
『音戸町誌』
『芸藩通志』
『萩藩閥閲録』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)
『毛利家文書』
公開日2021/01/23