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城データ

城名:能美城

別名:無し

標高:48m

比高:40m

築城年:不明

城主:能美氏、山野井氏

場所:広島県江田島市大柿町大原

北緯:34.166724

東経:132.462510

 

攻城記

攻城開始

 

切岸か後世に壊変されたものかは不明であるが、急勾配。

主郭

主郭から北に降りた場所。

平削地もあり曲輪跡っぽい。

階段状になっているが、後世の畑に壊変されていると思われる。

完全に壊変されたと思われるが、かなり広い平削地。

能美城矢竹

土塁様の上を上がるとまた平削地がある。

 

城の説明板

 

大原ふれあい広場

能美島誌によればこの地は、能美城址であったとされています。

これに思いを寄せられた重長政行氏が、平成元年九月大柿町に寄贈され たものであります。

ここは、史蹟と文化財を巡りなが ら、健康づくりを進めようというユ ニークなコースとして、広島県健康への道百選に指定された散罪路の中ほどにあり、健康づくりと交流や憩 いの施設として平成三年度地域福祉 推進特別対策事業で整備しました。

悠久の歴史そ懐古しながら、この 町に住んでよかったと実感できるまちづくりの実現を願い、この広場を 「大原ふれあい広場とと名づけます。

平成四年三月

大柿町長 平口武

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

概要

北西に延びる尾根の先端部を掘り切って独立させ,その最高所に方形の1郭を置く。

公園造成により郭と切岸の一部が破壊されている。

1郭から北と北西に分かれて延びる小尾根との間には堀切を設けて分断していたようである。

二つの小尾根上は開墾されているため郭等の遺構を確認することが難しい。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

1825年当時の能美城

拡大図

 

能美氏縁の場所

菩提寺である寶持寺

1628年頃に山野井重久(能美氏の子孫)が廿日市市の洞雲寺住職を通じて再興する。

 

寶持寺にある五輪塔、能美氏のものか?

宝篋印塔

石材の形質が洞雲寺にあるものと類似しており同年代だと考えられる(戦国時代末期~江戸時代初期)

洞雲寺にある宝篋印塔。

洞雲寺にある陶晴賢の墓。

基壇部分が類似している。

新宮八幡宮

恐らく能美氏の八幡宮だと思われる。

厳島神社大鳥居の西の真柱を大原村神社から取り伐採運搬に「能美左馬允」が奔走するとあるのでこの神社の木を伐採して厳島神社の鳥居にしたのが分かる。

 

神社の説明板

新宮八幡宮と由来について

広島県佐伯郡大柿町大原

八幡さん

その昔、大柿町柿浦の南端にある、蔦ヶ子島の北の海上に毎夜、 赤々と輝く光が現れた。

左衛門正助友という人が、正俸を確かめたところ、日輪のように 輝く玉・玉堂の小祠だった。

持ち帰ると海の光は消え、ある夜、助友の夢か幻に神体が現れ、 『我は国家を守る宇佐の八幡磨なり、大原の里・亀甲山に宮居を 造営し長くこの地に座神と崇むべし』と、告げた。

 

新宮八幡宮は、承平元年(九三一年・平安時代)八月十六日の 創建で社伝のように宇佐八幡宮とのつながりが深く、祭神も同じ、 一仲哀天皇 二神功皇后 三、応神天皇である。

神社の正称も『新宮八幡宮』で、八幡神社ではなく、鳥居や拝殿 の額も『八幡宮』である。

東能美的の氏神として敬われてきた、その歴史は千年を超える古社である。

参道入口の、幡川に掛かる石橋は、その記念で千年橋という。

社殿は、元禄十一年(一六九八年・江戸時代)に、拝殿は、享保元 年(一七二四年・江戸時代)の再建で、

現在の社殿・拝殿は、明治三 年(一八七〇年)に、神殿は、明治五年(一八七二年)の再建である。

下段の蔦居は、寛保三年(一七四三年)建立とあるほか、豊臣秀吉 の朝鮮出兵の時には、徒軍命令に反したとして、二町数反の神地 没収の記録もあり、由緒ある神社の一端をうかがわせる。

 

 

歴史

能美氏(山野井氏)について

能美氏(山野井氏)は江田島町史の中にある久枝家の系譜によると、河野親清の弟である遠藤盛孝の玄孫になっている。

これから推測すると、山野井秀清が活躍したのは1300年頃になる。

しかし、山野井家の伝承として能美町高田の堀城城主である、山野井源八兵衛が文治2年(1186)に居城を構えるとあるため、大きく遡ることとなる。

また、萩藩閥閲録巻70の能美三郎左衛門の中に嘉禎4年(1238)の書状があることからも、平安末期から鎌倉時代初期にはその始祖が在地勢力としていたと考えられる。

となると、平安時代に「能美庄」として荘園を管理していた在地のものが次第に勢力を持ちその在地名から「能美氏」を名乗ったのかもしれない。

ただし、婚姻関係などで久枝氏や河野氏の血筋も引いていると思われるので、全く河野氏が関係無い訳ではない。

 

実際に正平二十年(1365)、北朝方であった伊予守護家の河野通堯(のち通直)が讃岐の細川頼之に本城を攻め落されて南朝方に降伏し、九州の南朝征討将軍懐良親王のもとに逃れたとき、能美・厳島の両所に三か月にわたって滞在することとなる。

通堯が能美島に逃れたのは、能美の中村十郎左衛門が河野の有力武将久枝氏の縁者であった からで、中村十郎左衛門は、通堯が九州へ出発するとき、船を仕立てて海上に出ているところへ、通堯と同様、 細川軍の侵入によって敗走していた伊予の今岡通任が来たので通堯を通任の船に移したという。

旧版『大柿町史』は、中村十郎左衛門について、「能美氏が当時の の居所を苗字として、本姓とは別に高田十郎三郎とか衣田千代丸と称したのを以て考えれば中村を本拠とする能 美氏に当るのではないか」としながら「江田島の久枝氏や大原の山野井氏がその系図に示すように河野氏の支流 、かれらの所にこそ(※通堯が)落着くのが当然であろう。

この系図に示すよう 関が考えられるにせよ、それは能美氏の勢力があってその中に包摂される形をとったのではないかとしている。

 

『大柿町史』にとても詳しく記載されいるので転記する。

 

山野井氏の人々

大原の山野井恒裕家には、中・近世の文書が多く保存されており、その中の中世に属する二八通が『広島県史 古代中世資料編V』に掲載されていることは既に述べました。

これによれば、同家の祖先は、中世以前に能美氏 であったことがわかり、さきの広島県史は、「山野井文書」を解説して次のように述べています。

山野井氏は中世には能美氏を称し、おそらく能美島生えぬきの庄官の系譜をひくものとみられるが、伊予方面との交 渉が深く、長年にわたって河野一族と再三の婚姻関係を重ねた結果であろうか、現存の系図では河野氏の支族とさ れており、河野秀清の子清景が能美島へ来島し、能美(山野井)初代となったと記されている。

二代景親

三代景真

四代真氏

五代氏重

六代重秀

七代仲次(秀依)

八代景頼(世次)

九代景秀

十代景重

十一代重久

十二代 重吉

とつづくが、本書に所収されている時期は、元応元年(一四七六)から慶長五年(一六〇〇)までであり、六代 重秀から十代景重までである。

文書は、前出の応仁元年の大内氏書状に始まって大内氏・陶氏のもの一六通、来島氏のもの六通、毛利氏のも の二通、その他四通で、内容は、直接・間接に武事にかかわるもの八通、領地・相続にかかるもの一〇通、その他一〇通となっています。

これらには、水軍を率いた静が将といった面影があり、厳島の合戦の後まで山口の 大内・陶に属していたことがわかります。

「能美島志」には次のようにあります。

能美城大原邑にあり、芸備故城志に日く、某山大原邑伝え言う、河野親孝の裔山野井源八兵衛清景、左馬亮景親、 源兵衛尉景眞凡そ三世此に居す。源兵衛尉真氏に至り、去つて庶人となると云う。

〇予章記に謂う、貞治三年夏四月、 細川頼之予州高縄城を攻む、河野通堯敗れて官軍と九州に在らんと欲し、芸州能美に走る。山野井源兵衛厚く之を遇 し、通堯其属徒五百余騎と能美に懶す、即ち其の処 ※景真の真を訂正して直としていますが、これは後人の加筆と思われます。

このように、能美城に拠り武事にかかわっていた能美氏ですが武を棄てたことは二度あったらしく、

それは、 真氏から二代後の重秀(縫殿允、また若狭守)は前出の大内政弘の感状のある人で、武の盛んな人だからです。 『芸藩通志』の「故家」にも次の記述があります。

 大原村山野井氏先祖山野井清景は、伊予国河野秀清が子なり、此国に来り、始て能美島を開き、松尾由の城に居る。 四世直氏(※真ではない)応永の比山城を数て、別に第宅を構へ大原村に居る。第十世景重、朝鮮の役に従ふ、十一 世重久より農間に降り里正となる。

元和中藩君入封の日、船にて迎奉り、貝蛤、蜜柑などを進らす、今に至り、東行、船路なれば、此物を奉るを例とす。

祖清景より、今源五郎まで、家に足利将軍御教書、大内家感状等を蔵す。

鹿川村に同族あり。其祖八大夫、朝鮮の役に従ひ、帰朝の後別家す。其家、朝鮮飯器を蔵す。

このように、配氏がいったん城を毀し、そして最後に武を棄てて農に帰したのは、十一代重久としています。

 

なお、通志の、清景が伊予から来て能美島を聞いたとするのは信じることができず、能美若狭守の居た応仁の頃 二二〇年前の嘉禎の頃に既に能美島は開かれていました。五代前ということはあり得ないでしょう。

 

前に河野通堯を庇護したのは、中村十郎左衛門としましたが、「能美島志」は山野井源兵衛としています。

 

なお、同書には、宝持寺の項で、(※源兵衛には襲名があります)「中世の兵乱に寺院頽廃す山野井氏に及び能美の地を略定し、残ち骨嚇禅師を招き、寺院を再興して祖先の菩提所と為す」とあり、この兵乱は、厳島の合戦にさきだつ天文二十三年(一五五四)、毛利元就が陶方の諸城を攻めたときのことをさすと思われます。

 

能美氏は この中をもちこたえ、戦後弘治二年戦乱で死亡したと思われる景頼の跡目を、子満菊(千寿丸、後の景秀)が相 続することを陶晴賢を失った大内義長が安堵しております(山野井文書)が、この間、応仁以来の古文書が景秀 に伝えられ、今日の山野井家に遺されました。

 

しかし、義長は、翌弘治三年(一五五七)毛利氏に滅され、能美 氏にとって寒い季節となりますが、この年改元があって同年の永禄元年(一五五八)八月に山野井氏の祖能美景 秀と、来島通康とは通信が交されており、その後、同六年、能美島は来島氏の属領となって景秀は来島氏から本 地屋敷分その他の領有を安堵されています。

 

この間に、厳島合戦で毛利方に属して軍功のあった来島通庸のとりなしがあったものかと推測されることは前に述べました。

 

その後、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の合戦後、毛利氏が山口に去り、代って福島正則が広島に入国するに 及んで、武を棄てたことも前述のとおりで、これは十一代重久の選んだ道でした。

 

毛利氏の国替え、それも、中国八カ国から防長二国へ削封ということで、長州に給地のあった能美氏と違い、 毛利氏を因縁が深かったとは思われない源兵衛重久には誘いがあったとは思われません。

 

それに、徳川氏の制覇 は、武の時代が終ったことを予見させる何かがあったのか、彼は武を棄てたのでした。それは、農に帰ったとい うべきでしょうか。 廃医王寺の厨子に「割庄屋 山井三兵衛景休与頭中村利七同山井要助」とあり、年紀は宝暦五年(一 七五五)で、源兵衛重久が農に帰して後一〇〇年余を経過した時点のことです。

 

割庄屋というのは、郡に複数いて、交替して郡内村々の庄屋を指揮監督しますが、山野井家は、能美島を代表する実力をもって郡政に参画して いたのでした。 ここで、山井とありますが、山井がいつ山野井となるのか、その時期は明確ではないようです。慶長十七年 (一六〇七)に再建された八幡社の棟札に、「大丹那山野井源兵衛」(芸州佐伯郡寺社『佐伯町誌』)とあり、江 戸時代初期にどちらも時に応じて使用していたものかと思われます。

 

これについては、古代には、山上(憶良) は「やまのうえ」、柿本(人麻呂)は「かきのもと」でした。このように、山井は「やまのい」であったものと 思われますが、時代が下って、山井は「やまい」と読まれるので「野」を入れて山野井としたのでしょうか。

 

【年表】

室町時代~戦国時代

室町時代には大内氏の給人となっていたものと思われる。

応仁元年(1467):能美若狹守の代理が大内政弘に従軍して摂津に上陸する。

永正6年(1509):能美四郎(仲次か)、大内政弘の留守に山口不穏の風聞を聞いて馳せ参ずる。

天文3年(1534):能美縫殿允仲次ら大内氏に従い豊後国で大友氏と合戦する。

天文10年(1541):掃部助・能美新四郎・能美和泉守と能美三村に対して厳大鳥居造営の用材伐採に協力するように命じる能美氏は大内氏に従う。

天文23年(1554):毛利元就、陶の残敵掃討のため国司右京ほかを能美に差し向けて合戦あり。

この時に町域はかなり荒廃したと考えられる。

去月廿日、能美嶋動之時、其方悴者渡邊民部左衛門敵討 捕候、

寔神妙感悅無極候、彌可抽忠節之旨可申聞者也 仍感狀如件

天文廿三

  十月六日

隆元 御判

元就 御判

國司右京亮殿

弘治2年(1556):大内義長、「能美満菊」の相続を安堵する。

※この頃迄は大内参加の下にとどまる。

永禄3年(1560):毛利隆元、「能美内蔵丞宣通」に周防宮野庄15石の地を宛う。

※この頃には毛利参加に臣従する。

この内蔵丞は「能美町高田」の能美氏で早くから毛利氏に臣従している。

永禄4年(1561):厳島神社大鳥居の西の真柱を大原村神社から取り伐採運搬に「能美左馬允」が奔走する。

永禄6年(1563):来島通康、「能美景秀」(山野井氏祖)に能美本屋敷、能美島70貫の地を宛う。

※能美千寿丸=能美景秀か

天正10年(1582):山野井氏(大柿町大原の能美氏)、毛利氏に臣従、軍船のあずかりをうける。

文禄元年(1592):山野井景重、文禄の役に出陣。

 

城主家系図

 

この中で初代清景から3代景真までが能美城に居城したとある。

4代真氏以降は「堀」という場所に移ったという。

 

 

 

2代目城主能美左馬亮景親の墓。

 

能美城と堀の位置

 

中世の海岸線

中世の海岸線は今よりも奥深く入っており、能美城の麓まで海であった。

 

石高

能美島は大永3年(1523)の頃700貫であったとされる「平賀家文書」

また、来島氏より宛て行われた山野井氏の知行は総計120貫である。

11代重久の時の田畑高が360石とある。

 

『毛利氏八箇国御時代分限帳』に能美氏の石高がある。

能美清右衛門(重教) 101.07107、5

【内訳】

11.456,5 安芸 山県

29.504  安芸 佐西

60.147  周防 都濃

 

能美清右衛門は人物比定出来ないが「重」の通字があることから能美城の能美一族か?

 

 

江戸時代中期の書物に「能美島志」がありその中に東能美2385石、西能美2421 両能美4797石とある。

 

所感

●当初は島の小領主であり砦がある位しか思っていなかったが町史を確認して大勢力が存在していたのが分かった。

●能美氏(山野井氏)は古文書の中から多くの人物が分かっているが、どうも系統が多くあると感じる。

特に東能美の大原地区と西能美の中町、高田にも同族がおりそれぞれに発展していったと考えられる。

●能美城は車では行くことが出来ない、近くの寶持寺の駐車場に止めてから歩いて行くのがベスト。

●城自体は本丸の平削地だけなので僅かな時間で見終わるが、周辺の神社などもあるので散策するのが良い。

●近隣には支城の麓城もある。

●2代目城主能美左馬亮景親の墓がある場所は現在、小山の上に1基のみあるが、以前は数基あったらしい。

※地元の方に伺うと、このお墓の下に防空壕があり、長い間に地盤が緩くなり、防空壕の中に落ちたようだ。

また、道路拡張工事もあり小山も数メートル削られた。

 

関連城

【広島県】麓城【江田島市大柿町大原】

【広島県】亀山城・新蔵城・堀城・麓城【江田島市能美町中町】

【広島県】小屋城・堀越城・小城・北堀城【江田島市能美町高田】

 

参考URL

城郭放浪記(能美城)

能美氏|戦国日本の津々浦々

 

 

参考文献

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『江田島町史』

『大柿町史』旧版

『大柿町史』

『沖美町史』

『能美町誌』

公開日2021/1/10

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