城データ
城名:景石城
別名:磯部城
標高:325m
比高:255m
築城年:南北朝時代
場所:鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
北緯東経:35.343973/134.216147
攻城記
攻城開始、比高がそこそこあり大変そう。
途中このような狭い道もある。
足下注意。
堀り切り跡
堅堀跡。
見所のある石垣。
景石城の矢竹。
三の丸(物見櫓)跡
三の丸(物見櫓)跡から見た用瀬の町並み。
二の丸跡
二の丸からの風景。
本丸に上がっていく。
本丸付近の石垣。
戦国時代に積み上げられた石垣。
景石城本丸。
本丸の看板。
本丸の最頂部にある石。
僅かな痕跡が見える。
本丸はそこそこ広い。
さらに下って進むとこのような立派な石垣がある。
磯部氏の改修であろうか?
遠景、この画像の右上が本丸。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の説明板
景石城跡
この城が何年頃築かれたは明らかでないが 太平記に延文の頃(一三六〇年頃)既にあったと記されている。
その後、山名の城となったが 天正八年(五八〇)豊臣秀吉が鳥取城攻署の重 要な據点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として 鳥取城への備えとした。
ところが磯部が若櫻 鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻 め落されたが、翌天正九年、秀吉再度の鳥取 城攻畧により、鳥取城は落城、この際磯部は許されて再度景石城主となった。
以来城下町として用瀬宿を発展させたが、関ヶ原の戦いに 西軍に味方したため咎を受け、この城を去らなければならなかった。
替って智頭八東二郡 の領主となった山崎左馬介の持ち城となったところが元和元年(一六一五)一國一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。
今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており又、本丸・二の丸・物 見櫓などの広場と石垣又矢竹の郡生が見られる。
平成十二年四月 用瀬町教育委員会
城の概要
標高325mの丘陵頂部に2段の郭からなる主郭部があり、西側に面した部分のみに石垣を築いている。
西・北・東側の尾根に連続する郭群が続き、尾根続きとなる南側は堀切を設け、約300m南側に子持松砦(南郭群)、同じく約300m西側に降ったところに居館部があり、これらが組み合わさって景石城の全容を構成しており、完全に残っている。
築城は延文元(1356)年、主は景石氏・用瀬氏、磯部兵部大輔、山崎左馬介 元和元(1615)廃城。
鳥取県教育委員会『鳥取県中世城館分布調査報告書 第1集(因幡編)』より引用。
城の歴史
延文元年(1356):築城。
延文5年(1360年)、赤松世貞らによって落城、しかし、山名時氏により奪還。
戦国時代:用瀬左衛門尉が居城。
天正8年(1580年)、羽柴秀吉の攻撃により用瀬氏が退去すると磯部豊直が入城。しかし、毛利方の山名豊国に攻撃されて退く。
天正9年(1581年)、羽柴秀吉の因幡平定に伴い再度磯部豊直が入城
※智頭郡3000石が与えられる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで磯部氏が改易されると山崎家盛の持ち城となる。
一国一城令により廃城。
用瀬集落の東にそびえる頭巾山(三角山)北側のお城山山頂(三三五メートル)にあり、戦国期の城主磯部(磯辺)氏の姓をとって磯辺城ともよばれた。
山頂の平地のほか周辺に自然の地形を利用した三ヵ所の平地があり、郭・乾堀の 跡や石垣が残存する。
千代川や智頭街道を見下ろす西が 大手で、山麓に「御屋敷」と称する二〇間四方の平地や「権内屋敷」とよばれる所がある。
また一帯に下城・馬洗場・馬場谷・城の下などの地名がある。「用瀬町誌」
「太平記」巻三五に、赤松世 貞・同則祐が因幡・美作の「所々ノ城ヲ責ルニ、草木・ 揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾ノ城共、一怺モセズ」 とあり、ここにみえる景石城を当城のこととする説があ る。
天正八年(一五八〇)の羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めのとき攻略され、秀吉は磯部兵部大輔康氏を守将とした。
しかしその後まもなく毛利氏に味方する山名勢に奪回され(因幡志)、同年一〇月には毛利家臣吉川氏の手の者が困難に耐えながらも城を守っていたようである(同月一四日 「吉川元春書状」閥閲録)
翌年秀吉は再び鳥取城を攻めた、このとき軍功を挙げ、汚名をそそいだ磯部氏が智頭 郡半分を与えられて入城した。
磯部氏は鬼ヶ城(現若桜町) の木下平太夫の与力として当地方を治めていたが、関ヶ 原の合戦に際して西軍に属して没落。
慶長六年(一六〇一) 徳川家康から智頭・八東二郡を拝領した山崎家盛が若桜に入部すると、その端城として家臣が置かれたが、池田光政の時代に廃城となった(天正九年一一月四日「羽柴秀吉掟 書」間島文書、「因幡志」など)
城主石高
江戸時代の用瀬村が200石余りであった、仮に用瀬氏が近隣の所領を合わせたとしても1000石以下だと推測されるが実際は不明。
ただし、山名誠通の四人の重臣の一人として用瀬左衛門尉がいることからも大身であった可能性もある。
磯部豊直が智頭郡3000石を豊臣秀吉から賜る。
用瀬氏について
用瀬の名が歴史上に見られるのは、応仁元年(1468)で、因伯大年表に次のように見られる。
「応仁元年、因州智頭郡古用瀬城主用瀬、山名宗全ノ軍二従ヒ勇戦ス。」
ついで天文九年(1540)には 「因州ノ武田山城守八、伯州橋津ニテ討死ス。階下南条行松・山森本允・用瀬・ 山田出雲守重直・菱部等アリ⋯⋯ とある。
天文九年の戦いは、天文の役と言われるもので、橋津川での戦いである。
※天文九年とあるが、天文15年の可能性がある。
用瀬氏について因幡誌には 「古用瀬城、松茸尾城ト号ス。山名ノ旧臣用瀬氏、代々居城セリト。応仁記山名宗全ノ軍勢、因幡武士ノ内、持瀬某トアル ハ、此ノ家ノ先世ニテ、数世ノ家柄ナレバ、屋形(布施山名)モ賞翫アリシト也。」
又原氏系譜には 「先祖(用瀬左衛門尉)、従往古国侍用瀬氏也。」 とあり、これ等によって見ると、用瀬氏は、代々古用瀬に住んでいた国侍で、山名時氏が興国元年(1340) 因幡守となって、入国して以来、山名家に仕え、その重臣の一人であった。
又、原氏の元祖用瀬氏の中で一番目ざましい働きをしたのは、用瀬左衛門尉である。
この左衛門尉について八頭郡誌に次のように書かれている。
「原氏は奥西大明神として祭祀されるが、代々古用瀬松茸尾の城主であった。予孫に原又三郎があり、殿村(古用瀬の小字)におり、屋敷は堀をめぐらしていた。その子が用瀬左衛門尉で⋯⋯」
又、因幡誌によれば
天正ノ初、用瀬備前守入道ノ時、景石ノ磯部ガ方便ニ遭テ、一朝ニ滅亡セリ、用瀬左衛門尉ト云者、備前入道ノ一族ナル由。
更らに原氏系譜には次のように書かれている。
元祖左衛門尉 二世又三郎 左衛門尉長子
以上で見られる通り、左衛門尉については。諸説があって松茸尾城主であったといい、或は城主備前守入道の 一族であった。
更らに左衛門尉は、原又三郎の子だという八頭郡誌と、原又三郎は左衛門尉の子であるという原氏系譜と、其の他左衛門尉というのは、用瀬備前守入道が任官しての名だと言うなど、いろいろの説があって明確な資料に乏しいが、以下左術門尉の事蹟について原氏系譜にかなりくわしくあるので、これを中心にして見る。
原氏ノ尋濫鶴用瀬左衛門尉ハ、山名家代々ノ四臣、左馬介誠通随徒、但馬屋形祐豊卜誠通卜但州押ノ為鳥取へ外郭。
天文十四年 乙三二月半、久松城ヲ取立、守護家ノ長臣森下・中村・武田。用瀬四臣勤番、武田豊前守(高信父也)定番被為願定在城。
天文十七成申年誠通不図卒去。誠通息源七郎、弥次郎両人、長臣森下、中村、武田、用瀬ノ四臣相添、守立堅固二守護ス。
其後和順、両人幼稚二付、為后見ノ弟九郎豊定布施天神山ヲ守護、十餘年有テ學定死去、息源七郎豊数同任守護。
豊前守死去、息又五郎高信、様々ト廻智謀、永禄六年癸亥年ヨリ布施ト取合始リ、合戦無止事、高信弟高草郡鴨尾籠城、源七郎鹿野二テ毒死。弟弥次郎悲欺ス
翌子年立見合戦。高信謀ニ落入、弥次郎生害。用瀬ノ一族敗軍。
其後巨濃郡道行山三上ヲ伐平ゲ、其後豊数死去。豊国へ家督合戦無止事。
不浪人山中鹿之助因幡ニ飄泊シ、随徒豊国、法美那飯山二居ヲ構、高信卜合戦。
其後鳥取城攻、高信敗軍、豊国降参、弟又三郎鵯尾居城、用瀬左衛門尉其後智頭郡原村二帰館ス。
磯部兵部太夫ノ夕メ没落。本姓用瀬、原村住居ニ付、原氏と改。
右の文書によって見ると、用瀬左衛門尉は、布勢屋形山名誠通の四人の重臣(森下出羽守・中村大炊守・武田 豊前守・用瀬左衛門尉)のうちの一人であったという。
【磯部氏館跡】
近隣に磯部氏の館跡がある。
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
攻城
きちんと看板があり分かりやすい。
石垣のある平削地を上がっていく。
磯部屋敷跡に到着。
立派な石垣がある。
平削地も広い。
今は植林されている。
概要
景石城の西側、標高150mの山麓に南北2条の尾根に郭郡を形成している。
特に北側では4段に石垣を築いており、城主の居住空間と推定される。
鳥取県教育委員会『鳥取県中世城館分布調査報告書 第1集(因幡編)』より引用。
所感
●これぞ中世の山城という感がある。
●山頂部に石垣があるが、磯部氏の時の改修だと思われる。
●山頂からの眺望はよく、敵の来襲も一目で分かったであろう。
●磯部氏の支配していた時代は20年弱であったと思われるが、用瀬の城下町を作った人物だと思われる。
●麓には磯部氏の館跡があるが、往時はこの立派な石垣のある平削地に御殿が建てられていたと思うとワクワクする。
参考URL
参考文献
「用瀬町誌」
「鳥取県の地名」
鳥取県教育委員会『鳥取県中世城館分布調査報告書 第1集(因幡編)』
公開日2020/01/09