城データ
城名:高麻城(たかさじょう)
別名:大西城(だいさいじょう)(,高佐城,鞍掛城
標高:195m
比高:155m
築城年:天文年間頃か
城主:鞍掛久光、大西氏、毛利氏
場所:島根県雲南市加茂町仁和寺
北緯東経:35.34674/132.9253
攻城記
きちんと登山道があり上りやすい。
看板もあり分かりやすい。
攻城開始。
段々道も狭くなっていく。
眼下に広がる田園風景。
曲輪跡。
曲輪跡:広くかなりの兵を駐屯できる。
本丸付近。
本丸付近。
少し奥に入ってみても、藪化されておらず攻城しやすい。
切岸にはなっていない。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概 要
急峻な地形を利用して全山を城塞としている。主郭は最高所と考えられ、北西尾根筋は二重堀と連続竪堀群によって遮断している。
普請は全体的に行われており、特に虎口は未完成ながらも外桝形を呈している。
土塁の上を連絡通路とする等、ルートが特徴的である。大西氏の居城と伝えられるが、毛利軍によって改修強化された可能性が高い
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
加茂町加茂神社の天文三年(1534)三月五日の棟札にその名がみえるのが 鞍掛氏の初見であるが、のち尼子家の重臣大西氏の居城となった。
どのタイミングで鞍掛氏から大西氏に城主が代わったか不明。
高麻山の東方には「御殿平」と称する平地があるが、城主の館跡と思われる。
また、北方には「御倉平」と称する地名があり、兵糧用の倉跡と思われる。
大西地区から峡谷を経て山頂に達する谷を「小門谷」と呼んでいるが、搦手にあたるものと思われる。
なお、水の手は北方の真倉山から引いていたといわれる。
城の歴史
天文年間(1532〜1555):鞍掛久光によって築かれたと言われる。
天文12年(1543):大内氏の出雲侵攻に際し、大西高由は尼子氏に従い富田城の防備に着き、宮尾において大内勢を破る。
永禄8年(1565):毛利氏の出雲侵攻に際しても、大西高由は尼子氏に従い、富田城塩谷口の守備に当たり、吉川勢の攻撃を凌ぐ。
永禄9年(1566):毛利元就の月山富田城侵攻において尼子義久は開城する。のちに尼子義久は安芸に幽閉されたが、大西高由もこれに従った。
城主家系図
大西は「おおにし」ではなく「だいさい」と読む。
大西氏について
大西氏は佐々木四郎高綱の流れといわれているが、これについては立原氏と同じく信州から来住した飯沼氏から出ているのではないかと可能性もある。
その場合立原氏も飯沼出目とすれば、大西氏も立原氏も同じ流れを汲むという事になる。
その姓の源は、他氏と同じ様に古く大西(だいさい)に住んだところうおり起り、尼子経久の頃には大西荘の地頭職 に定着していた一族という。
永正年間に大西越中守、大西兵庫介高範がいて尼子経久に従い、武功を重ねて三万石を領し、大西重十兵衛高由は尼子重臣として晴久、義久に仕えた。
居城の大西城については諸説が立っているが、妹尾豊三郎氏の解説では大原郡加茂町の 鶴藤山(高佐山)であろうとし、古く鞍掛氏が拠っていたので鞍掛山とも言われ、出雲の一つの要 衝であって尼子十旗の一に数えられていたものと聞く。
大西氏で最も有名な人物は十兵衛高由で、兵庫介高範の子、天文12年大内軍の月山富田城侵攻の際には富地宮尾に陣を張っている毛利軍を破り、永禄8年(1565)の富田城攻防では塩谷口第一線の中川軍を排撃している。
天文23年(1554 )新宮党の変の時、又永禄9年(1566)の月山富田城における宇山飛輝守討取り時にもその名が挙げられ、 その他軍記中の随所に働きが見られる。
永禄9年(1566 )十一月二十八日に、尼子義久三兄弟が降伏し、毛利氏は尼子義久らを安芸に移して 長田延命寺に幽閉した。
その随従には宇山、立原、と共に大西十兵衛も重臣の一人として加えられ、その子息と共に三兄弟の身辺に世話をして、後に義久が幽囚の身を解かれて志道の根の谷に館を構える折も、これに付き従う。
しかし、天正十六年(1588)十兵衛は突如乱心のかどにより、という事で義久の手討ちに されてしまう。
また、息子の弥四郎もこれに伴って自害した。
その実情という事で島根県史は述べているが、あえてより尼子家に伝来の重宝で来国行の銘刀があり 、毛利側からはその差出方を指令されていたが、義久はこれを堅く秘匿し、弁を左右にし て没収を逃れていた。
ところがある時、十兵衛は毛利方の内藤内蔵之丞と雑談中につい迂潤にも宝刀の所在につき口を えらしてしまい、それが因で宝刀は毛利家に召上げられてしまった。
尼子の三兄弟はこの重代の宝刀を失うに至って、声を放って号泣したと云う。
その罪は忠臣大西十兵衛にあっても許し難しとして、遂に義久はこれを手討にし、表向きには十 兵衛の乱心として処置されたという。
毛利輝元はこの宝刀を獲て大いに喜んだが、後に豊臣秀吉との和睦の折に、第一級の贈物として秀 吉に献じられた。
注:毛利側記録には、義久が毛利家の待遇に感激して献上したとあり、輝元より義久宛の書狀があると書 かれている(毛利元就卿伝)
義久の勘気も解け、大西家の名跡は一族の新四郎(十兵衛四男か)がこれを嗣いだ。
新四郎と大西の後系は、以後を尼子姓を故姓の佐々木と改めた義久の子孫に仕え、志路、奈古、平川と移り、毛利の陪臣として維新時迄続いて今日に至っている。
城主石高
尼子分限帳には、
中老「大西十兵衛」備中之内30000石
侍大将「大西源介」備前之内7554石
を領有したと記されている。
所感
●登山コースとして歩きやすい山城である。
●反面技巧を凝らした山城ではなく、すぐに本丸に到着する。
●曲輪図では山の尾根筋に幾重にも曲輪が配置されているので1つ1つ丁寧に確認すればもう少し発見できたかもしれない。
●築城が天文期の戦国時代恐らく戦国時代も中盤に大幅な改修が行われたか、毛利氏改修があった可能性もある。
●尼子10旗の中には毛利に臣従してその家臣となるもの、一旦は毛利に臣従するも後に尼子氏に寝返り最終的に戦に敗れる家もあるなか、この大西氏は最後まで尼子に付き従い、最終的には尼子義久の安芸国幽閉時も同行している珍しい家。
参考URL
参考文献
「日本城郭大系14」
「島根県の地名」
「島根県地名大辞典」
「尼子盛衰人物記」
「尼子氏一門のルーツ」横山正克著
「出雲の山城」
公開日2020/01/03