城データ
城名:熊野城
別名:要害山
標高:280m
比高:180m
築城年:戦国時代か
城主:熊野氏、天野隆重
場所:島根県松江市八雲町熊野
北緯東経:35.357186/133.062953
攻城記
比高も高く登城口も不明。
熊野城下町の看板から目の前の山が熊野城だと分かる。
分からないのでとりあえず、山城の麓から直登を試みる。
登城口らしいところはあるが、果たして攻城できるか。
すそ野付近から厳しい雰囲気が漂う。
石垣跡?
後世の石積み跡かもしれない。
平削地、こんな藪ばかりのところを直登していく。
曲輪跡だとは思うが余りの藪化でよく分からない。
曲輪跡から眼下を見る。
更に上がって行くが本当にこのような感じで苦労する。
ということでここまでで攻城終了。
天野氏関連
天野八幡宮跡。
この苔むした感がたまらない。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概 要
尼子方の有力武将熊野久忠の居城で、雲芸攻防戦の時も尼子家復興戦のおりにも、毛利方を引き付けて戦った。
東麓に「土居成」という地名の屋敷地があり、熊野氏の居館跡と推定される。この「土居成」から主郭に至る緩斜面には、雛壇状に帯郭が築かれている。また主郭を取り巻く郭間の連絡通路を設けるなど緊密な縄張りであるが、土塁を築いていないところは、出雲国人の普請技術の特徴と考えられる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城と城主の歴史
文明4年(1472):「室町幕府奉公人奉書」の中に熊野殿が記載されている。
日御碕神社文書文明四年(1472)三月二十日付の室町幕府奉行人奉書の中である。
出雲国日置検校政継申、御崎社与杵築大社堺事、背往古之例、 大社司押領云々、為事実者太不可然、所詮任先規、彼堺并社 領大野庄内国守名、福富保、同所々散在田地等各被返付御崎 社畢、早合力政継代、可被沙汰居之由被仰出候也、仍執達如件
文明四
三月甘日
貞基
秀興
熊野殿
幕府は日御橋神社と杵築大社の領地争いに裁定をくだし、杵築大社に対し、その押領分を日御碕神社に返還す ることを命じ、熊野某に対しては、日御碕検校小野政継 に合力し、沙汰を執行せよと命じている。
天文22年(1553):連歌師谷宗養が富田城を訪れた。宗養は富田城連歌会所で千句を興行し、杵築大社法楽として俳諧を奉納した。
また、牛尾幸清・尼子敬久・多 胡浄周・熊野久家・馬田慶信・佐世清宗らの重臣たちが、それぞれの居館に招いて連歌会を興行した。
熊野久家も宗養を館に招き、千句を興行した。宗養は「ときは木ニ雲ゐる花の下葉哉」
と詠んでいる。
永禄5年(1562):7月毛利元就が月山富田城を征伐する為に軍を動かす、この時熊野城の熊野兵庫助久忠ら多数の出雲国衆も毛利に臣従する。しかし、11月に再度熊野久忠が尼子氏に帰順する。
永禄5年(1562):12月尼子義久が毛利氏に寝返った三刀屋氏の三刀屋城を攻める、その時に熊野西阿入道が尼子勢として三刀屋に攻めていく。
結局、熊野西阿入道は八畦の峠にて三刀屋氏側からの夜討ちをかけられて討死する。
注:熊野西阿入道は熊野久家の出家名の可能性もある。
永禄6年(1563):毛利軍の白鹿城攻撃時に熊野久忠が尼子軍として防衛する、9月には毛利元就に熊野城を攻められたが、熊野氏は良く守りこれを退けた(熊野鉄砲揃の戦い)。
永禄8年(1565):11月に富田城が開城したため、熊野久忠も熊野城を開城し毛利氏に降伏する。
永禄12年(1569):6月尼子勝久の挙兵に応じた熊野久家が尼子氏に寝返る。
元亀元年(1570):布部山の戦いで尼子方が大敗を喫すると、諸城と共に熊野城も開城する。
天正年間(1573~1593) 富田城から天野隆重が移り、居を構えた。
城主石高
詳細不明。
所感
●現在整備されておらず、本丸まで行くのは難しい。
●熊野氏の詳しい記載された古文書がないので不明な点が多いが、文明4年(1472)の「室町幕府奉公人奉書」の中で初見されるが、この当時までには地域の有力領主だった。
●熊野城も尼子十旗らしく、永禄年間の毛利氏の尼子氏侵攻時と尼子勝久の尼子家再興時の激戦時において一時的に名が知れる城となる。
参考URL
参考文献
「日本城郭大系14」
「島根県の地名」
「島根県地名大辞典」
「尼子盛衰人物記」
「尼子氏一門のルーツ」横山正克著
「出雲の山城」
「八雲村誌」
公開日2020/01/03