城データ
城名:仁保城
標高:222m
比高:222m
築城年:室町時代後期頃
場所:広島県広島市南区仁保町
北緯東経:34.366173/132.490246
攻城記
仁保城全景、現在は黄金山という名称の山になっています。
三の丸説明文
三の丸
仁保城看板
二の丸説明文
二の丸にはテレビ塔などがあり遺構の残りはあまり良くないです。
二の丸平削地、昔からなのかテレビ塔作成時に平削地にしたのかは不明。
お城と言えば矢竹です。
本丸説明文
本丸付近はこのような感じになっています。
本丸看板
本丸付近からの眺望はよく海城としての性格をしっかりと表している。
当時眼下に広がる町並みは全て海であった。
当時のイメージとしてはこのような感じ。
若干石積みのようなものも見受けられる。
降りたところの出城付近。
山頂からはかなり下ったところに出城がある。
仁保城の縄張り図
『日本城郭大系』13より引用
open-hinataより【仁保城】
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の説明板
15世紀末、世をあげて戦国動乱に巻き込まれていたころ、広島湾頭では安芸国守護武田氏と周防の大内氏の勢力が角逐していた。
この仁保城跡は、当時広島湾頭に浮かぶ要害の山城で、明応4年(1459)武田氏はその警固を府中城主白井氏に命じており、大内勢の侵攻のあったことも知られる。
武田氏が滅びた後、やがて毛利氏の勢力がここにも及んで、弘治元年(1555)厳島合戦を前にしてたびたび仁保城をめぐる争奪戦が行われた。
城の歴史
明応4年(1495):安芸国守護の武田氏から府中城主白井氏の当主であった白井光胤がその警固を命じられる。
大永2年(1522):大内義興が武田氏を攻める為に周防から来襲する、仁保島も攻撃される。
大永7年(1527):大内義興が再度仁保島を攻める、この時に仁保白井氏は武田氏から大内氏に寝返る。
※しかし、府中白井氏は依然武田氏側であった。
享禄2年(1529):白井光胤が大内義興から周防国玖珂郡柳井庄の内20石を与えられる。
※この20石は芸北一帯に所領があった高橋氏の知行分である。
天文20年(1551):白井光胤が大内義隆が家臣の陶晴賢に謀叛をさせられ自刃、これ移行白井氏は陶氏の家臣となったと考えられる。
天文23年(1554):毛利元就が陶晴賢と決別する、当時仁保城主だった白井賢胤は陶氏の家臣であった為、毛利氏から攻められて追われる、また毛利元就は家臣の香川光景を仁保城の城番とする。
天文24年3月(1555):毛利家臣から離反した矢野城城主である野間隆実とともに白井賢胤の軍勢が仁保城を攻めるが奪還できず。
天文24年7月(1555):陶家臣三浦房清が水軍500を率いて攻めたが、香川光景は200の手勢で撃退する。
弘治24年10月(1555):厳島の合戦があり、陶晴賢が自刃する、この地域が完全に毛利氏の勢力下にはいる。
※白井氏は後に降伏して小早川氏の傘下に入ることとなる。
天正19年(1591):このころまでに毛利家臣の三浦元忠が仁保城を有することになる。
慶長5年(1600):関ヶ原の戦いにて毛利氏が萩に移封し福島正則に変わる。
この前後に廃城となったと考えられる。
宝暦以前(1662年頃)に仁保島も干拓して陸続きとなる。
※皆実新開、東新開が干拓される
広島の新開地発展図。
『概観広島市史』(1955年)巻末図より引用。
戦国時代の仁保城(現在の黄金山)
『芸藩通志』に加筆修正
白井氏3城の位置関係。
当時は海に面した城であった。
城主家系図(白井氏)
城主石高
香川光景:531.368石
三浦元忠:16888.560石
所感
●白井氏の城であったが白井氏には2系統のあり府中出張城に元々いたが、仁保城の方は庶流と考えられる。
※備中守(本家)、越中守(分家)と考えられる。
備中守は武田家臣として最後まで抗戦し滅亡、一方越中守は大内氏の臣下となり存続。
●江戸時代に干拓で陸地化されているが、当時は広島湾頭の島であり、海城の性格を有していた。
●本丸からは、海上が一目でわかり、武田の水軍警固衆として活躍していたことが想像できる。
●現在はテレビ塔などがあり遺構が殆ど残っていないが、石垣の跡や少し降りたところに曲輪跡が残っている。
●車で山頂まで行けるので楽に攻城できるお城。
関連URL
参考URL
参考文献
「府中町史」
「毛利氏八箇国御時代分限帳」
「萩藩閥閲録」
「安芸武田氏」 河合昭一著
公開日2020/12/19
最終更新日2021/1/24