本日義父の四十九日を行いました。

 

はじめに

生前の義父との思い出は闘病生活だったということです。

 

2000年に結婚しましたが、その数年前から何度か妻の実家には行き、義父と話をしたことがあります。

温厚な方で質問をよくされた記憶があります。

 

結婚の挨拶をしに行った時もすんなりとOKされほっとしました。

 

結婚式の時も小まめに披露宴の参加者にお酒を継いでおり、気さくな方という印象でした。

 

結婚して翌年に義父は脳梗塞で倒れました、まだ定年退職して数年しか経っていない時にです。

 

定年後は近隣に畑を借りて家庭菜園的な事をして悠々自適に生活をしようとしていた矢先の出来事でした。

 

倒れたのも家庭菜園をしていた畑という場所、幸い早急な処理で一命を取り留めましたが半身不随になったのは残念な出来事です。

 

当時妻は身もごっており、急な出来事で大変な時でもありました。

 

まだ60代前半ということもあり、肉体的にも元気だった為、精力的にリハビリをしてなんとか、補助道具があれば自立歩行できるまで回復

 

それから20年以上の闘病生活が始まります。

 

体が不自由になってから義母が60代で自動車免許を取得していろんなところへ連れて行く生活の始まりでもありました。

 

義父にとっては体の不自由はどうしようもありませんが、義母や娘らに色々されて幸せだったのではないでしょうか?

 

闘病後の私との記憶は、とにかく親切にしてもらった事と仕事のことで気にかけてもらった事です。

 

3人娘で聟が3人いますが(そのうちの1人が私)何かと気にしてもらった記憶が今では鮮明に思い出されます。

 

結婚当初、先祖探しが趣味だと義父に言ったところ、義父から「自分の先祖に関わる戸籍は全て取得してもいい」との快諾を得て、役場で全ての直系尊属の戸籍を入手した事、本家筋の方ともお話をさせていただき、貴重な話を聞けたことが大きいです。

 

この戸籍入手で子どもから32人(5代前)全ての先祖の名前がコンプリートできた瞬間でもありました。

 

他にも、義父の母親の父親(内縁関係であった為戸籍に出てこない)の家に連れて行ったもらった事もありました。

※戦後すぐでも付き合いがあり、親身になって食料をいただいたらしいです。

 

自分のやっている、先祖探しということについて機会があり、尚且つ協力もしてもらい感謝の念でいっぱいです。

 

そんな義父ですが、家族(義母や娘)からの印象はまた違うものがあったようです。

 

昔は亭主関白で尚且つすぐに機嫌が悪くなるっぽく、仕事で家から帰った時の声の調子で分かったようです。

また、プロ野球で贔屓のチームが負けるとこれまた期限が悪い。

更に、外食先でも気に喰わない場合は店員に文句を言う

 

という始末。

 

昔の父親はこんな感じだったのかもしれませんが、娘しかいなかったのも一因かもしれません。

 

義父が倒れた後に、孫が6人誕生して、好々爺として残りの神石を過ごしたのだと思います。

後年になるにつれて、だんだん弱って行き出来ることが少なくなってきました。

 

昨年あたりからは反応も薄くなりがちでしたが、何故か私の事は記憶にあるらしく、名前を読んでもらっていました。

 

半年前に介護もどうしようもなく施設に入りましたので、もう残りの人生も僅かだと認識していましたが、今年の正月に施設で嘔吐して救急搬送、その後、介護病院に移転して2月6日に亡くなった次第です。

 

だたし、急な死ではなく、親族は皆いつかこの日が来ることは認識していましたので、死という事実を冷静に受け止めている感じもありました。

 

私も死期が近づいていると感じていましたので、義父の生きてる肌感覚を記憶に留めるべく、介護病院に1月31日に行き話したり、腕をさすったりして来るべき日に後悔しないようにしました。

 

 

葬儀から

葬式当日は雪の降る寒い日でしたが、逆に身の引き締まる日でもありました。

 

先祖探しを40年もしていると、死というものが遠いものではなく近いものになっており、悲しさよりも俯瞰的にみてしまう傾向になっております。

 

義父の子どもを見ると。

喪主としてあれこれ考えている長女。

天然さ満載で場を和ます次女。

色々あくせく動いて義母や姉を助けている三女

 

義父の孫を見ると。

やたら亡くなった義父に話しかける孫。

クールで感情を表に出さないが思うところがある孫。

声には出さないが、ずっとお棺の前で祖父の亡骸を見続ける孫。

などでした。

 

そこには、義父との関係や自分のアイデンティティなどがある事を感じる出来事でした。

 

私も先祖探しに興味をもったのは自分の祖父が亡くなった時でした。

祖父はどんな人物だったのだろう、祖父の父親はどんな人物だったのか?その両親は?

 

葬儀という非日常な世界が私をこの世界に引き入れた要因だと今でも感じています。

 

そして、葬式から四十九日が経過した本日お寺にて供養を執り行いました。

 

妻の実家は浄土真宗です。

お寺さんではお経を上げていただき、その後の副住職の法話に感銘を受けました

 

今まで何回か通夜、葬儀、法事に出席しましたが、内容として心に刺さる話でした。

 

内容としては

●亡くなって約1か月半経過、悲しみの日の中で一般的な日常(笑のある日々)が始まっていないか?

→それでよい、常に悲しんでいる事ではない。

 

●よく相談に来られるのは自分は葬式の時に泣く事は無かった、自分がこんなに冷たい人間だったとは思わなかった。

→感じ方は人それぞれ冷たい訳ではない

 

●亡くなって10年20年経過しても故人との結婚記念日、誕生日、好きな曲が流れるなどしたら涙が流れる、いつまでも故人の事で悩んでいるのではないか?(死を乗り越えられていないのではないか?)

→それが普通なことでありありのままでよい

 

●悟りを開く事は一喜一憂しないことであるが、凡人には難しい、しかし、様々な経験をすることで感情に揺さぶられることが少なくなる

→何十年経っても悲しければ泣けばいい、楽しいことがあれば笑えばいい

 

上記のことを話されており納得しました。

 

その後、義父の骨壺をお墓に納骨。

墓の中には骨壺が3つ有り。

1つは義父の母の骨壺

1つは義父の母の母の骨壺

1つは義父の母の母の母の骨壺

 

ここで疑問が生まれたのが母はあるが父が無いことです

義父の父南方で戦病死の為遺骨無し

義父の母の父は内縁関係の為無し

こちらがその墓(東京市の市会議員だったっぽい)

は義父の母の母の父は不明(養子の為もしかしたら別にあるか?)

 

因みに同じお寺にこの「義父の母の母の母」の父の墓もあります。

 

骨壺の納骨も和尚や専門業者がいたので質問しまくりました。

●墓石はガラスのようにもろいので角があたるとすぐに欠けるので最新の注意が必要

●墓石をあけるのは簡単だが、おもさが30キロあるのでコツがいる

●骨壺の入っているところは下が土なので水が下抜抜ける(雨が漏れるよりも夜露、雨露が入る)

●中は広くて10から16の骨壺が入る構造

●それより多いと骨壺の上に骨壺を置くことや、骨を一緒にする

●骨壺の蓋には故人の名前が書いている場合がある

●骨は土葬とかでない限りほぼ風化しない(土葬は風化する)

→昭和62年に亡くなった義父の母親の骨を確認しましたがとても綺麗な状態でした

 

 

ここで感じた事

●墓を守ってくれる子孫がいれば骨になってもあり続ける

●しかし、子孫がいない場合や子孫が供養をないがしろにしたら終わる

●子孫がいない場合でも悲観することは無い、別の方法もある

●死とは怖いものでない、命のリレーであり託すものがいれば安心できる(それは子どもでなくても良い)

 

副就職の話でも、先人は後人の為に道を開き、後人は先人の行為を感謝しつつ、自分も先人になっている自覚をする

とのことでした

 

私は、10歳の頃から先祖、人の生死に関して感じながら生きてきたので、恐らく同姓代の方より死生観が違うと思います。

そして、その違う死生観で生きてきました。

 

そうこうしているうちに四十九日も無事終了。

 

その後、親族で近場の料亭で食事をしました

 

喪主の長女の挨拶で義父はみんなで食事をすることが好きだったこと、地域の事(主に町内会のスポーツ関係)で尽力していたこと等を

聞きましたが、確かに盆正月で皆が集まった時の義父の笑顔は今でも忘れません。

 

食事では親族も話が盛り上がり、あの世で義父も喜んでくれたと思っています。

 

食事会が終了後、私の実家にも家族で行き顔を見せました

※料亭から車で10分程なので。

 

義父でこれだけ感じることはありました、私の両親の場合は更に感じることも多いと感じた次第です。

 

気づき

●人間はいつか亡くなります、亡くなった時にいかに関係のある方に自分を思い出として残るかが重要ではと認識

 

●先祖を敬う心があれば子孫からも敬われる

 

●自分は何者か?これを探求するには先祖探しが一番

 

●人生とは短い、副就職の話を引用すれば朝は元気でも夕には白骨(死)になるかもしれない

 

●もし今己にやりたい志があるのであれば残された時間でその志を進めること

※私の志は先祖探しが世の中に認知される事です。

 

 

私も50歳になりましたので、定年後はこの志に向けて邁進していこうと思った次第です。