先祖や子孫の名称
先祖や子孫、親戚の名称ですが、多々あります。
日本は古来、親戚関係との関係が深い歴史でしたためその名称も多くありました。
※分かり易い様に徳川家康を例にしています。
自分の両親、祖父母は分るとして、曾祖父母はなかなかお会いした事はないかもしれません。
ましてや高祖父母となると、名前すら聞いた事無い方も多いと思います。
親戚関係は従兄弟(いとこ)は一般的に会うこともありますが、二従兄弟(ふたいとこ)は会うことも稀かもしれません。
若しくは、よく盆正月に会うおじさんが二従兄弟という場合もあります。
私もいつも、盆正月にくるおじさん(自分の親と同じ世代)がいましたが、家系図に示して実は二従兄弟だということが改めて分かりました。
関係図
二従兄弟の場合は曽祖父が共有の先祖になります。
高祖父が共通の場合は三従兄弟(みいとこ)になります。
※三従兄弟は別名(またいこと)とも言います。
私の場合は曾祖母の姉がいましたので、その曾孫が三従兄弟になります会った事ありませんが、1回お手紙を出して電話をしたことがあります。
関係図
当時かなりの高齢でしたので、ひょっとしたら既に8世代目の子孫がいてもおかしくはありません。
※因みに現在は引っ越しておりどこにいるか不明です。
このように私の家では高祖父を初代にして一番進んでいる世代は既に7~8世代まで子孫が繋がっています。
※女系も含めて。
子孫の間では三従兄弟ではなく四従兄弟の関係も存在しています。
曽祖父、高祖父、5世祖、6世祖
曽祖父=祖父の父
高祖父=祖父の祖父
5世祖=祖父の曽祖父
6世祖=祖父の高祖父
高祖父までは名称がありますが、それ以上は5世祖や6世祖という言い方をします。
一般の家で何世代も血統で判明している家が無いので分かりやすく、徳川家で説明します。
徳川家康からすれば高祖父は松平長親という人物です。
5世祖が松平親忠
6世祖が松平信光 になります。
家系図をよく確認すると、実は家康が生まれた次の年に高祖父が亡くなっております。
子、孫、曾孫がかなり早い時に嫡子が生まれていますので、ギリギリ孫の孫である家康を見る事が出来ております。
今でも、生きている時に高祖父母に会える方は稀な方だと思われます。
家系図を確認すると分かりますが、大叔父、大叔母は先祖探しをする時の重要なキーパーソンになり得ます。
祖父母が亡くなった方でもこの大叔父や大叔母が生存していれば、生で曾祖父母や高祖父母の情報を得られることが可能となるからです。
※自分達からすれば、両親や祖父母なのでリアルな曽祖父母や高祖父が分かります。
結婚して姓が変っている大叔母も重要な人物ですので、漏れなく先祖の事を確認してみましょう。
叔父、叔母に関しては、通常の親戚つきあいをしていれば、話しやすいと思われますので問題はないかと思われますが、従兄弟違も家の伝承を探る時には是非とも話しを聞きに行く親戚です、特に本家の方が従兄弟違の場合は必須です。
玄孫、来孫、昆孫、仍孫、雲孫
下をくだっていくと子孫にも様々な名称がついています。
自分を起点に子孫をくだっていくと、子、孫、曾孫までは会える可能性が高いですが、玄孫(孫の孫)になるとかなり難しくなってきます。
代々20才で子どもが生まれたとしても80才になってやっと玄孫が生まれます。
10代後半~20代前半で子どもが生まれた場合で尚且つ自分が100才近い古老であれば玄孫にギリギリ会えるかもしれません。
子
孫
曾孫=孫の子(曾孫までなら会える可能性がある)
玄孫=孫の孫(ごく稀に会える方がいる)
来孫=玄孫の子
昆孫=玄孫の孫
仍孫=玄孫の曾孫
雲孫=玄孫の玄孫(孫の孫の孫の孫)
これらの名称が昔から存在しているということは、子々孫々まで家を繋いでいきたい、または継ぐべきものという観念があったと想像できます。
別の見方をすれば、それだけ、家を繋いでいくということは難しいのかもしれません。
家康の雲孫は徳川家定ですが、江戸幕府成立と幕末位の年代差があるのが興味深いと思います。
私達の目的も自分に繋がる家系図や家伝を正確に記して後世に書物として残し、雲孫以上に残せればと思います。
【まとめ】
●古来日本には親族を示す名称が沢山あった。
●上に遡る名称は4代上までしかないが、下に下る名称は8代下まで名称がある。
●従兄弟(祖父共通)、二従兄弟(曽祖父共通)、三従兄弟(高祖父共通)など会った事がない親戚もこの世には沢山いる。
●将来の雲孫の為に、先祖の記録を纏めておきたいものである。