城データ
城名:犬山城
別名:白帝城
標高:82m
比高:30m
築城年:天文6年(1537)織田信康によって築かれる。
城主:織田氏、豊臣氏、石川氏、平岩氏、成瀬氏
場所:愛知県犬山市大字犬山字北古券
北緯:東経:35.388318/136.939288
攻城記
お決まりのアングルからスタート。
アップ。
麓に到着。
これは城の石垣ではないかもしれない。
城域に到着、立派な石垣がお出迎え。
わくわくしてくる。
天守が見え始める。
犬山城の歴史
犬山城は天文六年(一五三七年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎 によって造られました。
戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、一六〇〇年の関 合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。
小牧長久手合戦(一五八四年)の際には、豊臣秀吉は大阪から十二万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和三年(一六一七年) 城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。
明治四年(一八七一年)九代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や 城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。
明治二四年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、 それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。
その後、伊勢湾台風などでも被害をうけましたが、昭和三六年(一九六一年) から四〇年まで四年間をかけて解体修理をおこないました。
望楼型の独立天守 で、高さは二十四メートルです。 国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城のなかでも、 最も古い城であります。
平成十六年四月、財団法人犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人 から財団法人になりました。
しっかりと整備されている。
この石垣の積み方が好き。
算木積みではないので、関ケ原以前か。
天守からの風景。
見晴らし最高。
成瀬氏以前にも多くの城主がいた城になる。
内部。
天守閣内にも石垣がむき出しになっている。
奥まで行けないのが残念。
周辺部。
余湖図【犬山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
犬山城
大山城は白帝城の別名で知られ、木會川南岸の丘陵上(標高八〇m)に築かれ た平山城である。
初め文明元年(一四六九)、室町幕府の管領斯波義郷の家臣織田広近が、現在の丘陵の南方にあたる木下に城を築いたが、のち斯波氏の勢力が衰え、尾張一 円は織田氏の支配するところとなり、天文六年(一五三七)、広近から四代のちの織田信康が、木下から現在地に移築したものである。
信康は、同十六年に美濃の斎藤道三を攻めたが敗れて退いた。
その跡を継いだ信清(津田姓を称した) は織田信長に城を追われ、元亀元年(一五七〇)、池田恒興が城主となる。
以来、 文禄四年(一五九五)に石川貞清(初名光吉)が城主となるまでに、城主は織田・中川・池田・加藤・武田・ 土方・三輪など八氏も交替 し、戦国時代とはいえ、い かにもめまぐるしい。
その 後も、関ケ原の戦で、石川貞清は西軍に与して所領を 失い、戦後、徳川家康の四 男松平忠吉が尾張を領して、 その持城となり、忠吉の病没後、慶長十二年(一六〇七)、尾張徳川家の祖義直 (家康の九男)が清須城主となり、その補佐役として、九万三千石を頷する平岩親記 が犬山城に入った。
親吉は 同十六年に没して無嗣除封 となり、元和二年(一六一 六、一説に元和三年)、尾張徳川家の付家老成瀬正成が城主となってからは、 三万五千石を領して代々世襲し、明治に至った。
この城は、濃尾平野を一望のもとにおさめ、また、中山道や美濃街道を制す る要地にあるので、織田・豊臣・徳川各時代を通じて、尾張北辺の防衛拠点として重要視された。
天正十二年(一五八四)の小牧の戦に、羽柴秀吉が当城を本 陣とし、小牧山の徳川家康と対抗したことは有名である。
小牧山の戦は、織田信長の遺子信雄が、秀吉の圧力に対し、家康と結んでこれを討とうとしたのが始まりで、秀吉方の池田恒興が、兵五千を率いて犬山城を急襲し、当時この城を守っていた中山定成(織田方の部将)を討死させたことによって、戦端が開かれた。
城郭は、北から西にかけて木川が流れ、樹木の茂った断崖上に本丸があり、 その南に二の丸・三の丸が設けられ、さらにその南方一帯に城下町が開かれた。
東・北・西三方からは山城にみえるが、南はゆるく傾斜して平地となり、平山城であることがわかる。
大手門前に、犬山の俳人で芭蕉の高弟、内藤丈草の句 碑「涼しさを見せてやうごく城の松」が建っている。
本丸の西北隅に、三層五重、東西およそ一八m、南北およそ一五mの天守閣 (国宝)があり、その優美な外観と共に、木曾川中流に臨む楼上からの眺望はすばらしい。
天守閣は、文禄四年(一五九五)、時の城主石川貞清の造営といわれ、 美濃金山城から移築したとも伝えられるが、昭和三十六年から四年間にわたる 解体修理の結果、下部と上部とでは、用材や工法などに年代の差がみとめられ、 下部は天文六年(一五三七)、上部は慶長初年の築造と考えられるようになった。
いずれにせよ、現存最古の天守閣の一つとして、築城史上まれにみる貴重な遺 構といえる。
さらに、名古屋城天守閣が太平洋戦争で戦火を受けて焼失した現在、県下唯一の現存天守閣である。
『日本城郭大系』9より一部引用。
城の歴史
文明元年(1469):応仁の乱の際、織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりとの伝承がある。
天文6年(1537):織田信康が木ノ下城から現在の地に砦を築いた。
天文13年(1544):織田信康が戦死して、子の織田信康が城主となる。
永禄7年(1564):織田信康が織田信長と対立しえ甲斐に逃げる、その後は池田恒興や織田信勝などが城主を務める。
天正10年(1582):本能寺の変にて織田信雄の家臣である中川定成が城主となる。。
天正12年(1584):小牧・長久手の戦いで池田恒興が織田信雄方から奪取する。
天正15年(1587):織田信雄方に返還される。
天正18年(1590):織田信雄が改易されて、豊臣秀次の領地となりその実父である三好吉房が城代となる。
文禄4年(1596):豊臣秀次が切腹すると、石川定清が城主となる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで石川貞清は犬山城を放棄するが敗北する。
慶長6年(1601):小笠原吉次が城主となる。
慶長12年(1607):平岩親吉が城主となる。
元和3年(1617):尾張藩の付家老の成瀬正成が城主となる、以後明治維新まで9代続く
城主家系図(織田家に関わる城主のみ)
青字が犬山城城主に関わるもの。
赤字は織田信長。
城主石高
平岩氏時代:123,000石
成瀬氏時代:30,000石
所感
●別名が白帝城と呼ばれる、川面からみる城は優雅である。
●川の方からは崖で登れないので必然的に攻め口が限られる。
●現存12天守の1つであり、非常に貴重な城。
●成瀬氏は大名であったが、尾張徳川家の家臣となり陪臣となる。
関連URL
小牧・長久手の戦いで池田恒興が織田信雄方から奪取する。
参考URL
参考文献
『愛知県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/10/30