城データ

城名:置塩城

別名:藤丸城・小塩城

標高:380m

比高:330m

築城年:文明元年(1469)

城主:赤松氏

場所:兵庫県姫路市夢前町宮置

北緯:東経:34.923413/134.683112

置城城はここ

 

 

攻城記

登山口。

赤松氏城跡 置塩城跡

国指定史跡。

室町時代に播磨守守護職であった赤松氏の居城。

 

標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡である。

 

遺構は東側の城内最高所にあたる伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。


平成13~17年度に夢前町教育委員会が発掘調査を行った結果、伝二の丸跡で庭園とそれに面する大型の礎石建物、伝二の丸跡の北側で、曲輪群を貫く通路の遺構等が確認された。

 

これらは格式を意識して構築されたものであるが、この意識は置塩城跡のプランを特徴づけるものとなっている。

 

また、伝本丸跡には最終段階で天守的な性格をもつと考えられる塼裂建物を構築しており、城郭使用の末期段階において、伝本丸跡を中心とした曲輪は、この城全体の「詰城」的な機能を持っていたと考えられる。


なお、発掘調査を通して出土した生活遺物は、土師器皿、中国製磁器碗・皿・備前焼甕・擂鉢、瓦質土器鉢など1万点に及ぶ。


一般的に置塩城は、文明元年(1469)に赤松政則が築城したと伝わるが、この城が居城化し大規模に改修されるのは、16世紀中葉遺構で、赤松政村(晴政)・義祐・則房が城主であった時期に相当する。

天正8年(1580)羽柴秀吉による城破令が出され廃城となった。
     平成20年8月
     姫路市教育委員会”

 

 

 

 

 

攻城開始。

戦国時代の遺構ではない。

南曲輪群。

茶室跡。

土塁。

石垣の崩れた場所の散見される。

大石垣。

途中眼下が見える場所があるが、眺望がきく。

中心部に進むとさらに大きな石垣がある。

曲輪跡。

三の丸跡。

しっかと土塁が残っている。

二の丸北曲輪群。

二の丸。

石垣の残る。

本丸跡。

本丸からの眺望。

本丸南曲輪群。

 

余湖図【置塩城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【置塩城】

 

 

城の概要

置塩城跡 夢前町宮置・糸田

南流する夢前川左岸に位置する城山に築かれた室町時 代後期の山城跡。

 

国指定史跡。小塩城とも書く。

 

応仁の 乱で播磨の支配を回復した赤松政則が文明元年(一四六九) に築城したとされるが(赤松家播備作城記)、当時の政治状 況からは山名政豊が但馬に引上げた長享二年(一四八八)の築城と考えられる。

 

城主は政則の後、義村・晴政(政村) 義祐・則房と続き(「光明寺由緒覚書写」光明寺文書) 後期赤松氏の本城となる。

 

永正一一年(一五一四)鵤庄(現太 )と小宅庄(現龍野市)との間の用水争論に対する守護 松義村の裁定を仰ぐため、当事者が八月一九日から二八 日まで置塩に滞在している今鵤庄引付」斑鳩寺文書)。

 

また 同一六年には年貢に関する譴責の使者の撤退を、鶴庄か ら置塩の櫛橋則高に申入れている(鶴庄引付)。

 

則高は義村の奉行衆で、義村が政則の後を継いだ直後から置塩にお り(一二月一五日「櫛橋則高書状」清水寺文書)、置塩は守護所 として機能していた。

 

義村は備前国守護代の浦上村宗と 対立しており、永正一五年一一月九日には小塩城を出陣し、村宗の備前三石城(現岡山県備前市)を攻めている(赤松記)。

 

また同一七年には義村方の小寺加賀守が美作の営屋 城(現同県久米町)に村宗方の中村氏を攻めた。

 

しかし村宗方への寝返りが出たため、小寺加賀守以下数百人が戦死 している(鶴引付)。

 

このため劣勢となった義村は足利亀 はしたに 王丸(義晴)とともに置塩城を出て端谷(現神戸市西区)の衣笠 五郎左衛門館に逃れている(赤松記)。

 

政村の代になると、天文七年(一五三八)に出雲の尼子詮 久が播磨に侵攻、政村は置塩から高砂を経て淡路へと逃れている。

 

このとき当城には留守居を置いたとされる(赤松記)。

 

永禄一一年(一五六八)に織田信長が上洛すると、当時の城主赤松則房は反織田派に味方したらしい。

 

城は翌年信長家臣の木下助右衛門らの攻撃を受けている(八月一 九日「朝山日乗書状案」益田家什書)。

 

またこの動きと関連するものか、天正三年(五七五)五月五日には恒屋城(現香寺町)の恒屋肥前守が東側の尾根から城に夜襲をしかけてい る(播磨鑑)。

 

しかしこれは芥田氏や白国氏らの活躍で撃退 している(五月一三日「赤松則房感状」芥田文書、同日「赤松則房感状」白国文書など)。

 

同年末には則房も信長方に従った (一一月二四日「八木豊信書状」吉川家文書)。

 

同八年羽柴秀吉 による三木城攻めが落着すると、秀吉は播磨国内の城割 を命じており、このとき置塩城も城割の対象になった(四月二六日「羽柴秀吉播磨国中城割り覚」一柳家文書)。

 

城山は東側が鞍部となり独立性が高く、東西二つの峰 からなる。東側の峰は標高三八二メートルあり、城内で 最も高い。

 

現在は本丸とよばれている。天正三年の夜襲 で攻撃を受けた外丸は(五月一三日「赤松則房感状」上月文 書)、ここと推定される。

 

さらに鞍部の東側の尾根にも 城があり、恒屋(現香寺町)方面からの攻撃に備えていな 西側の峰は標高三四九メートルあり、山麓からの比高は 約二九〇メートル。

 

ここが城内で最も広く、中心的な曲 4輪であったとみられる。

 

現在は二の丸とよばれる。 の中心部には瓦が散布しており、瓦葺の建物があったこ とがわかる。

 

部分的には石垣も使用されていた。とくに 夢前川沿いの平野部に面した石垣は巨大な石を使用して おり、視覚的な効果を意図した石垣であるといわれてい る。

 

さらに帯曲輪により城内移動のルートが設定されて おり、曲輪と城道の機能分化が確認できる。

 

帯曲輪は城 域を画する役割も果し、戦国時代後半の縄張りの特徴を示す。

 

城下町は南側山麓の近世の置塩町村付近に所在し たといわれる。

 

現在その位置は不明であるが、大門や小路などの地名が存在したことが知られている。

 

『兵庫県の地名』

 

置塩城

夢前町は姫路市の北に接し、町域は南北に広がっている。その地点は中国山 地から南流する二本の並行な河川、東の夢前川と西の菅生川の中・上流域にあたる。

 

置塩城は夢前川の中流東岸の置塩山(地形図では「城山」とある。以下、 城山と記す)の山上にある。

 

付近の地形は夢前川に沿って狭長な谷底平野が南 北に連なり、川の両側の山地は随所に狭まり、細長い盆地の連続といった様相 を示している。

 

城山の東方は山々が重なり、城山から続く尾根は南北に延び、 標高三〇〇-四〇〇mで、市川流域との分水嶺をなしている。

 

城山は標高約三六〇mで、宮置や又坂の平地からみると、東の山地から突き 出た独立峰のような形態を示し、夢前川が山麓を西から南にかけて流れ、北か ら西へ、西から南へと続く斜面は急傾斜をなしている。

 

山上からの眺望は南・ 北の谷間とも見通しがよく、山城として要害堅固な地が選ばれていることがわかる。

 

置塩城は、この城山を本城とし、周辺の山地や置塩城に通じるすべての 道路に砦・城門などを設けて、全体として一大城郭を構成していた。

 

つまり、 城山から南約五㎞、姫路の平野部から夢前河谷への南の入口にあたる玉田の地 に「大門」の地名があり、同様に城山の北西約六㎞、現在、中国自動車道の通 じている勤野谷の円明寺から東へ約一〇〇mのあたりには「谷の大門」、また 城山西方三の菅生川流域の寺村には「御門」とよばれている台地があり、それぞれが置塩城の入口となり、この門で囲まれる範囲を城地とみなしていたようである。

 

 

嘉吉の乱で一時断絶した赤松氏が、政則によって再興したあと、本城とした のが置塩城である。

 

将軍足利義教を暗殺し、播磨に帰った赤松満祐は当時、領国支配の拠点としていた書写坂本城を攻められ、龍野の北方城山城に籠もった が、但馬から侵攻して来た山名持豊の軍に敗れて自殺した。

 

ここで赤松宗家は滅亡し、赤松氏の領国であった播磨は山名持豊、備前は山名教之、美作は山名教清がそれぞれ守護に任ぜられて領有 した。

 

南朝方(宮方)から神璽を奪還した功によって幕府は赤松法 師丸の家督相続を許した。

 

加賀半国の守護として赤松氏は再興し、 法師丸は寛正六年(一四六五)に義政の謝を許されて政則と名のっ た。

 

政則は応仁の乱の時、細川勝元の命によって播磨を攻め、旧領の奪回に努めた。赤松政則は最初、姫路城を居城としていたが、 姫路から約一〇㎞内陸に入った置塩山を選んで文明元年(一四六九)十二月、置塩城を築城し、これに移って本城とした。

 

政則が置塩城初代の城主であるが、当時、播磨はまだ完全に赤松氏の支配下となっておらず、文明十五年(一四八三)には備前の 松田元成が政則に背き、これを助けて備後と但馬の山名氏が赤松氏の支配地に攻め入り、以後、数年間、播磨は赤松・山名両氏の争乱場となった。

 

政則が山名政豊を書写坂本城に攻めて政豊を但馬に敗走させ、播磨・備前・美作三国の支配を回復し たのは長享二年(一四八八)のことである。

 

置塩城二代目城主は義村である。政則には後嗣がな く、明応五年(一四九六)の政則の死後、七条赤松氏政資の子を養子として迎えた。義村の頃から赤松家は内紛や下剋上の風潮が強く、執権浦上則宗が実権を握り、 則宗の跡を継いだ村宗は大永元年(一五二一)に義村を 室津実佐寺に幽閉し、暗殺した。

 

三代目城主は義村の子晴政で、享禄三年(一五三〇) に細川氏の内紛に加わり、浦上村宗を倒したが、尼子 晴久の播磨侵入に敗れ、晩年は女婿龍野城主赤松政秀 のもとに身を寄せ、永禄八年(一五六五)に龍野で没した。

 

四代目城主は晴政の子義祐である。城主になった時、 まだ年齢が若く、勢威はあまり振るわず、所領もわず かに飾東・飾西・神東の三郡を領有するのみであった。

 

五代目城主は義祐の子則房である。天正三年(一五七五)に播磨の赤松・別所・小寺氏ほかの国衆は上洛して織田信長に誼を通じたと『信長記』にみえる。

 

この赤松氏が置塩屋形の則房のことか、龍野城主赤松氏のことかはっきりしない。同五年(一五七七)の羽柴 (豊臣)秀吉の播磨平定に際して則房は秀吉に従い、阿波住吉に一万石を与えられて、置塩の地から去った。

 

政則から則房まで五代続いた置塩城も同九年(一五八 一)の秀吉の姫路城築城の時、用材を姫路へ運び、ついに廃城となった。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

文明元年(1459):赤松政則が置塩城を築城する。

 

明応5年(1496):赤松政則死去し義村が2代目当主となる。

 

大永元年(1521):浦上村宗が赤松義村を室津実佐寺に幽閉し、暗殺する。

 

享禄3年(1530):赤松義村の子で晴政が浦上村宗を倒す。

 

天正3年(1575):赤松則房が他の国衆と織田信長に誼を通じる。

 

天正5年(1577):豊臣秀吉の播磨平定に際して則房は秀吉に従い、阿波住吉に一万石を与えられて、置塩の地から去った。

 

天正9年(1581):豊臣秀吉の姫路城築城の時、用材を姫路へ運び、廃城となる。

 

 

城主家系図

 

所感

●播磨国守護として格式の高い城郭を備えていた。

 

●往時は政治の中枢であり、また茶室もあり文化の中枢でもあった。

 

●赤松家は戦国時代には凋落の一途をたどり一勢力に落ちたが、それでも守護としての威厳はあったと思われる。

 

関連URL

 

参考URL

置城城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨置城城)

西国の山城(置塩城その1)

西国の山城(置城城その2)

置塩城 -播磨の城ー – 秋田の中世を歩く

赤松氏(ウッキペディア)

武家家伝(赤松氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/11

ホームに戻る

攻城一覧



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.