城データ
城名:勝山城
別名:厳島城
標高:26m
比高:23m
築城年:大永4年(1524)
城主:大内義興、陶晴賢
場所:広島県廿日市市宮島町
北緯:東経:34.294371/132.318094
攻城記
現在の多宝院付近。
場所はそこまで広くない。
すぐ山になっており多くの兵士が滞留することは難しそう。
付近からの景色。
少し離れたところにも削平地があり、この辺にも兵が陣取っていたのかもしれない。
位置関係
open-hinataより【勝山城】
『芸藩通志』【勝山城付近】
城の概要
房顧記によると、「永正十五年神主興親が京都で客死してから、厳島は草津、廿日市、五日市等の豪族が東西に分れてその支配権を争った。
島内の有力者も東西に分し、不安な状態であった。初め、島内は東方に味方したが間もなく西方になった。
その後 東方となり西方となった。その頃役人新里氏は、「花谷山ヲ城ニ調へ勝山ト号ス」また「大永四年(一五二四)七月、大内義興、義隆父子は、廿日市桜尾城に拠って 大内氏に叛旗をひるがへした友田興藤神主を亡ぼすべ 城を包囲したが、その頃義興は厳島の勝山ノ二重に屋形を立 て滞在し、桜尾に渡海して軍を指揮した。」とある。
勝山は後に、陶全姜が、毛利氏を撃つために来島してまず大將陣とした所で、すなわち通志のいう多宝塔陣處である。
多宝塔(通志にも説明あり)は、大永三年癸未六月創建というから、義興が陣処とした時すでに存立していた。
図会によると、多宝塔のかたわらにもと塔の本寺である多宝院があ ったと記してある。
大内義興は、房顕記によると、大永四年は引きつゞき在島して越年し、翌五年二月廿二 日には大野門山城に渡海した。
その留守中に、在浦に繋留中の座船に火事があった。
同年 三月廿六日にも門山城に渡海している。その後門山城に滞在中、享禄元年七月に病に罹った。
同年八月廿日には、桜尾城の神主と称する友田興藤の後継者広就に、厳島で対面して いる。
その後、義興は山口へ帰還し、十二月廿日、山口において逝去した。 義興の厳島に滞在中は、この勝山城(屋形)に拠ったことであろう。
『いつく島の史跡・名勝』より引用
城の歴史
大永4年(1524):大内義興が屋敷として利用する。
大永5年(1525):2月20日に対岸の大野浦に渡海。
天文24年(1555):陶晴賢が厳島に最初に上陸して陣所にした。
所感
●陶軍が数千の兵を陸上させたとして、この場所だけでは到底収容できない位狭い。
●すぐに塔の岡に陣所を替えているので、一旦大野浦から上陸、その後塔の岡まで広い範囲に兵を駐留させたのかもしれない。
●勝山城の中には多宝塔(1523年創建)もあり、寺域に在陣した可能性もある。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『いつく島の史跡・名勝』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2024/11/08