城データ
城名:徳吉城
別名:無し
標高:30m
比高:25m
築城年:永禄年間(1558~70)
城主:徳吉将監
場所:鳥取県鳥取市徳吉
北緯東経:35.501466/134.202302
攻城記
現在は大野見宿祢命神社になっている。
社殿。
本丸跡か?
本殿は厳かな雰囲気ある。
野見宿祢に縁のある神社。
削平地
投石用の河原石か。
本殿の裏にも削平地が広がる。
徳吉城矢竹。
削平地はところどころある。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
徳吉城推定地。
城の概要
概要
徳吉城は徳吉集落の東、本徳吉に築かれた平城であった。
国侍徳吉将監の居 城で、将監は山名氏の麾下であったが、永禄年間、鳥取城の武田高信に味方してこれに背いた。
その後、毛利勢の進攻によってその麾下となった。
ついで天正九年(一五八一)、吉川経家が鳥取城城番を命ぜられて当国に入部 した時、経家はただちに鳥取城に入らず、当城にしばらくとどまったのち鳥取 に入城した。
その後、羽柴(豊臣)秀吉の鳥取城攻めの時、徳吉将監が支えがたいことを考え、当城を捨てて鳥取城に籠った。鳥取落城後は野に下り邑美郡(鳥取市)古市に住したという。
当城は野坂川・千代川を水堀として利用し、四方に大土手を築いて総構えとしていたようで、『因伯古城跡図志』によれば「平地六十間四方」と記されて いる。
しかし、現在ではその跡は水田と化し、「城土居」「天馬ナワテ」などの 地名が残っているのみである。
『日本城郭大系14』より引用。
城の歴史
永禄年間に山名氏を裏切り武田高信に味方する。
天正9年(1581):吉川経家が鳥取城の城番を命じられた時に一旦徳吉城に入城した。
徳吉将監は豊臣秀吉の鳥取城攻めにて落城した後には在野に下りこの頃、廃城になったものと考えられる。
徳吉城の疑問
『日本城郭大系14』には徳吉城は徳吉の集落の東にある、その跡は水田と化している。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』にも平地に位置する城郭で現在は民家となっている、と記載。
このことから、画像の位置に徳吉城があったのではないかとも推測。
徳吉にある松上神社。
平城となればこの場所も推定地としても可能性ないか。
謎の石。
『因幡民談記』の中に所収している「布施城ノ図」の中にも徳吉城が載っているが山の上ではなく、平城として記載。
位置関係
所感
●戦国時代にある期間のみ存在した城である、しかし、400年以上前の伝承が伝わっていること自体が素晴らしい。
●城の推定地は2か所あるが、結局どこか不明。
●その後の徳吉将監の子孫も土着しており現地には子孫が繁栄しているかもしれない。
関連URL
本城である布勢天神山城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系14』
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』
更新日2021/03/21