城データ
城名:大富山城
別名:無し
標高:511m
比高:180m
築城年:天文2年(1533)宮高盛によって築かれたと云われる。
城主:宮氏
場所:広島県庄原市西城町西城
北緯:東経:34.929545/133.114012
攻城記
登城口。
攻城開始。
途中小学校の校庭がみえる。
削平地であるが曲輪かどうか不明。
公園化されている。
どんどん登っていく。
途中にある「あやめの段」
まだまだ先は長い。
比高も高くなってくる。
曲輪跡。
井戸跡。
曲輪跡。
石垣跡か。
やっと山頂に着く。
石垣跡。
庄原市史跡 大富山城跡
西城市街地の南端にそびえる大富山は、久代宮氏(西城宮氏)の本拠として戦国時代屈指の山城である。
山容は壷を伏せたようで、頂上に本丸、山麓に30余段の郭がめぐらされ、西城川を臨む東麓に城主の居館があった。
500m北方の萩野台地は馬場として利用、“桜の馬場”と呼ばれ、侍屋敷も置かれていた。
その先端明神山は、当時“亀の尾山”と称して、“二の丸”が構築され、尼子合戦のおりには守りの拠点となったところである。
更に北方、西条盆地の彼方には兜山、蟻腰、その他の支城や塁を配して正面の守りを固めていた。
本丸南方、搦手は急崖を介して大空堀を開削、さらに尾根伝い約500mのなかには、たくみに数段の郭や空堀が連ねられ、その突端に“物見が丸”が構築されていた。
物見が丸は、数段の郭や空堀で守られ、南方はるか高、庄原一帯を展望していた。
また外周を曲流する西城川と大屋川は、東と北を画す天然の外堀をなし、入江川を内堀として、その城構えはまさに広壮堅固なものであった。
大富山城は、室町時代後期天文2年(1533)、宮氏が奴可郡久代村(現在庄原市東城町久代)から、この地へ本拠を移すに際し、7代上総守高盛が築城したもので、以後桃山時代天正19年(1591)11代広尚に至って、出雲の国塩冶に領替えになるまで、5代60年間在城、次いで着任した天野新兵衛尉元嘉は慶長5年(1600)、関ヶ原の後まで9年間在城した。
天野氏は毛利氏に随従して長州に移り、広島に福島正則が入封。
その家老長尾隼人正一勝が、東城の地へ赴任するに及んで、大富山城は廃城となった。
宮氏は築城以来、毛利、尼子両勢力の中に介在しながらも、よく勢力を伸ばし、大いに郷土発展の基を築いて大富文化の花を咲かせた。
庄原市教育委員会
本丸跡。
本丸から少し降りてみる。
大堀切付近の看板。
これだけの堀切を造るのにどのくらいの人力が必要なのか。
大堀切を尾根づたいに進む。
なにやら人工的な石の跡を発見。
古天神
大富山の古名は丸山といい、天満宮を勧請してあった。
天文二年(1533)、宮高盛がこの山に築城の際、社を取り除いたが、居城後毎月末不思議な異変があるので、神の祟りを恐れ、本丸の西南にあたるこの場所に社を再建した。
これを俗に「城山天神」という。
しかしこの社地は峻阻で老少の参詣に困る為、寛政十年(1798)山麓の西にあたる入江中山へ移して「丸山天満宮」と称えた。
そして移転後も旧社はそのままにあって、「古天神」と呼ばれ、毎年7月25日に祭りを続けた。その後荒廃して今は敷石の散在する社跡が残るだけである。
このあたりは「天神ヶ平」といい、大富山城搦手から続く尾根が南へのびて「物見ヶ丸」に至る郭群の一部を形成しているところである
「天神が平」の跡。
今から2~3億年前は海であった。
看板が残念なことになっている。
「物見が丸」の曲輪。
「能楽寺が丸」跡
景色も良い。
空堀?
浄久寺【宮氏菩提寺】
浄久寺
曹洞宗 三峰山青原林浄久寺
本尊 聖観音菩薩
勧請開山 鼎庵宗梅和尚(徳雲寺2世)
二世中興 覚海道智禅師(徳雲寺5世)
久代宮氏7代高盛が、東城から西城大富山へ移城の翌年『天文3年(1534)』城南のこの地を選んで、一宇を建立し、菩提寺とした(久代記)。
以来、460年余り法灯を守り宮氏11代の位牌を祀る。
寺宝の掛け軸に9代上総介景盛寿像、山城守藤原盛勝容像、覚海禅師寿像の三幅(いずれも広島県重要文化財)、宮氏の末裔日野氏寄進の永代祠堂手形などを所蔵する。
また、備後33カ所観音霊場の第21番、奴可郡札33カ所の第9番、大富荘18カ所の第13番の札所でもある。
広島県天然記念物に指定されている「カヤ」の大樹のそびえる一面の苔庭は伽藍に映えて古禅寺の風趣をそえている。
一族墓所。
こごめ石が使われている。
位置関係
余湖図【大富山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【大富山城】
拡大図。
城の概要
北側山頂の1郭を中心とする郭群,その南に続く細尾根の2郭を中心とする「天神が平塁」,さらに南の3郭を中心とする「物見が平塁」の,三つの郭群からなる。
北側山頂の1郭を中心とする郭群は,1郭とそれを取り巻く帯郭からなる。
登城路は北東麓から付き,これに沿って3段の郭がある。
これらの南約 100m先の山裾には,今は芸備線で分断されているが,居館があったという。
「天神が平塁」は1郭を中心とする郭群との間にある堀切の南に続く尾根上にある。
2郭はかつて天神社があったところで,北側は岩盤が露出し加工が不明瞭である。
岩盤は郭群のいたるところで露出しており,また所々で河原石が散乱している。
「物見が平塁」は「天神が平塁」の南に接し,3郭から3方向に延びる尾根に郭を置き,南側の二つの尾根に3重の堀切を配している。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
大富山城跡 西城町入江
西城川西岸にそびえる大富山(五一一・四メートル)に構えられた中世の山城跡。
旧入江村と旧栗村の境に位置するが、「国郡志下調書出帳」では栗村にあげられている。
大富山は古くは丸山と称し、壺を伏せた形をし、比高一八 〇メートルの要害の地で、東麓を流れる西城川と北麓を流れ西城川に合流する入江川が自然の堀をなす。
「久代 記」(山口県文書館蔵)に
此山其容丸クシテツボヲ伏スルガ如シ、峯高クシテ 白雲腰ヲ巻、頭上平ニシテ五六反計巽ノ方ニ岩水湧出用水ニ余レリ麓ニ大河ヲ抱工南二尾先山五町計リ指出タリ、北面ハ嶮岨ニシテ岩石数十丈如屏風立ニ テ苔滑カナリ、飛鳥モ翼ヲ難延イハンヤ人倫ヲヤ
と要害堅固な様を述べ、城名は「大キニ国モ富ベキトテ 其名ヲ大富ト号シ」たものとしている。
山頂には本丸・大手の段・井戸の段などの郭があり、 南東下方に、あやめの段・菊の段がある。
搦手にあたる南西の尾根は空堀で断ち、その上に郭を設けている。大手とみられる北東麓にも郭があり、東麓の西城川との間に居館があったとみられている。
大富山の北方約六〇〇 メートルの位置にある亀尾山(のちに明神山と称する)には塁を設け、大富山城の二の丸の役割を果した。
その間を流 れる入江川は内堀の役をなし、亀尾山北麓を曲流する西 城川と支流の大屋川が外堀をなす広大な構えであった。
大富山北方約三キロの八鳥には蟻腰城があり、そのほか大佐の兜山城をはじめ多くの支城や塁を配し、守りを固めていた。
城主宮氏に関しては、山口県文書館蔵と伊藤家文書の二系統の写本が伝わる「久代記」以外には有力な史料は知られず、系譜など不明な点が多い。備後生え抜きの豪族といわれ、備後南部に勢力をもち亀寿山城(跡地は現芦品 那新市町)に拠って南北朝時代以後活躍のめざましかった宮氏の一族とみられている。
天文二年(一五三三)宮氏七代高盛は久代(現東城町)の比田山城から当城に移り、 川西(現 東城町)の五品嶽城に渡辺七郎左衛門尉を置き、奴可郡のほとんどを支配したといわれる。
天文五年尼子氏の軍勢が当城を攻めたが落せなかった (「久代記」伊藤家文書)。宮氏は南の三上郡高村(現原市)方面へも進出を図り、恵蘇郡本郷村(現原市)に甲山城を構え、恵蘇・三上両郡に勢力を有した山内首藤氏と対立し た。
天正一四年(一五八六)に山内隆通が毛利氏に差出した 知行高の高・小用(現庄原市)七〇〇貫のうちに備後一 備津神社領がみえるが(同年二月一二日「山内隆通知行書立案」 山内首藤家文書)、それらは宮氏の寄進になるものと思われ、宮氏が三上郡北部にも勢力を有した時代があったかと思われる。
なお宮氏はのちに毛利氏に従っており、九州の立花合戦や備中高松城(跡地は現岡山市)攻撃にも参加したという。
天正一九年毛利輝元は豊臣秀吉の命により領内総検地を 行うとともに家臣の知行替を断行した。
宮氏一一代広尚 は出雲国神門郡塩治(現島根県出雲市)へ移されたといわれ (久代記)、毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)に神門郡内の給人として宮仁左衛門の名がみえる。
一説には、 伯耆国日野郡(現鳥取県日野郡)に移されたともいうが、 日野郡生山(現日南町)には宮景盛の次男景幸が生山城主山名氏の養子として入っており(「閱録」所収日野要人家文書)、 混同されたものかと思われる。
『広島県の地名』より引用。
大富山城
西城盆地の南端に悠然とそびえるのが大富山である。北方の八幡山にある中学校あたりからの眺めが特によい。
壺を伏せたようないかにも堂々とした山容である。
入江川を挾んで、その前面にはこの城の二の丸にあたる明神が丸の塁がひっそりと影のようにたたずんでいる。
この城は西城宮氏が拠ったところである。
宮氏は、もと東城町久代に本拠を置き、六代景友の代に川西(東城町)に五品嶽城を築いたが、天文二年、七代上総守高盛は西進して本拠を西城に移した。
この地は、もと西条と呼ばれていた が、以後、西城と呼ぶようになったという。
同氏は高盛・興盛・景盛・智盛・ 広尚の五代にわたって大富山城に在城したが、天正十八年(一五九〇)、毛利輝元の怒りを買い、伯耆国日野(一説によれば出雲国塩谷)に移封させられた。
大富山城は周囲が見上げるばかりの天嶮で、特に東・西・南側は壁のようにそそりたち、しかも東から南にかけて西城川が流下し、北はこれに川が天然の濠を形成している。
『久代記』の表現を借りれば、「峯高くして白雲山腰にかかり東の麓へは雲伯の境より流れ出づる大河あり。南の尾崎は山五町計差出て鯱の如く鳥ならでは通ふものなし」という堅固な要害で、山頂には 約二〇〇〇㎡の本丸があり、これを取り巻く帯郭の形で大手の段・井戸の段などの郭が三、四段あり、東西に少し下がって「あやめの段」・「菊の段」がある。
搦手は西南の細尾根を垂直に近く切り落とした薬研堀 で、その押さえに約一〇〇〇㎡の郭を配している。
現在、 東側の山麓を西城川に並行して南北に国鉄芸備線が走っており、西城川と入江川の合流 点あたりが登り口になっている。
この登り口に沿って三段の郭が配置され、その一〇〇mくらい南側の山裾は芸備線 で分断されているが、居館があったという。
したがってこのあたりが大手であろうか。
二の丸にあたる明神が丸の塁は大富山のすぐ北側にあり、 西から東へ延びる丘陵が鉤手に北側に張り出す突端部にあたる。
頂上の郭から北側と西側に向かって数段の郭群を築いている。
頂上の郭は標高三九〇m、比高七〇m、西側にある県立西城商業高校あたりに比べて約二〇m高い位置にあり、現在、厳島神社が鎮座している。
合戦に際しては大富山城の出丸として北方をにらむ枢要の位置を占めた。
築城者高盛は尼子勢の南下に備え、天文二年、備中国哲多郡八鳥村(現在の野馳)の要害山に要害城を築き、八鳥・二本松の戦いで尼子方の草刈氏らを退けている。
また、同五年九月末、尼子経久の軍勢が高盛を大富山に攻めたが、 不成功に終わっている(『久代記』)。
西城盆地の守りは、大富山城の約三㎞北側の八鳥方面と熊野方面への分岐点にあたる中央部に蟻腰城があり、西側の通路は、西城川を隔てて有田山館で挟 み、東側は標高五〇〇m以上の山頂に大平山・広峰山・滝戸等の城や塁を築いて固めている。
また、南に下って二の丸北東には兜山城、北西には胎蔵寺の柵を設け、三方の要衝の地を押さえていた。
なお、城の北方八幡山の裏手には久代から移した氏神の八幡宮があり、本丸の南九〇〇mの山麓近くには氏寺浄久寺がある。
宮氏の出自については、不明な点が多い。惣領家は亀寿山城(芦品郡新市町) に拠った宮氏と思われるが、系図上のつながりは不明である。
永享十年(一四 三八)三月九日、亀寿山城主宮下野守盛重が東城町受原や森の領地を菩提寺へ 寄進した正文や東城町管の徳雲寺の寺伝に「東条の邑主宮下野守政盛が長禄元 年(一四五七)に父教元の追福のため周防から僧覚隠永本を迎えてこの寺を建立 した」とあり、いずれにしても久代(西城)宮氏は亀寿山城惣領家の有力な庶家 であったろうと思われる。
浄久寺は備後北部の巨刹徳雲寺の第二世鼎庵宗梅が宮高盛を開基檀那として建てた寺である。
この寺には大富山城主三代の宮上総介景盛(永禄十年)、宮家 の家老山城守盛勝(天正十年)、浄久寺第二世覚海禅師(天正八年)、以上三幅の 寿像が所蔵されている。
大富山城主五代宮左衛門広尚のあとは、二代で断絶するが、彼の弟景幸は毛利氏の後援を得て、伯耆国生山城主山名氏の跡を継ぎ、近世には毛利氏の千五百石取の家臣として萩に移っている。
『日本城郭大系』13より引用。
大富山城
○本城跡は典型的な山城跡で、西城市街の西南にそびえる標高511mの大富山に築かれた。
北から東に大屋川と西条川をめぐらし、亀の尾(明神山)にある二の丸との間に入江川を内堀とし、さらに南に天神が平と物見が丸を構えた宏壮な城郭である。
○久代宮氏は7代高盛が天文2年(1533)この山に築城して久代(現東城町)から本拠を移し、11代広尚にいたるまで5代60余年間在城したが、領替えとなって天野新兵衛尉元嘉が入城した。
元嘉は居ること9年、慶長5年関ヶ原の戦後毛利氏に従って長州萩に移り、福島正則が芸備両国を領するにおよびこの城は廃された。
庄原市サイトより
城の歴史
天文2年(1533):宮高盛によって築かれたと云われる。
天文5年(1536):備後国に侵攻した尼子勢を撃退。
永禄2年(1559):段司河原で山内氏家臣の田中河内守と戦う。
天正12年(1584):3月13日、輝元は山内隆通に対し、山内氏が三吉氏や久代氏、三沢氏と同様に毛利氏に人質を差し出す事を要求。
『山内家文書287』
天正17年(1589):この頃広島城で本丸に近い部分に屋敷を構える。
天正18年(1590):11代宮広尚のとき毛利輝元の怒りをかい、伯耆国日野(一説には出雲国塩谷)に移封させられた。
天文18年(1590):城主が天野元嘉に変わる。
慶長5年(1600)::関ケ原の戦いにて天野氏が萩に転封する(このころ廃城か)
城主家系図
尼子氏との関係、日野景幸は景盛と尼子誠久娘の子どもであるが、智盛は不明。
城主(一族)石高
久代宮氏として約2000石の石高を持っていた。
所感
●16世紀初期には五品嶽城から移動してきたが、対尼子対策で移動したのか。
●1536年当時尼子氏を撃退とされているが、この頃は尼子氏の勢力備後地域に深く広がっており、尼子、大内氏の間で揺れ動いていたと思われる。
●どのくらいの所領があったか不明であるが、1万石以上はあったのかもしれない、しかし、広尚が軍役負担を軽くする為に石高を過少に申告し、それに怒った毛利輝元によって転封させられる(石見若しくは出雲)
●その後に萩に行っていないため、関ケ原以降は詳細不明。
●宮智盛に関しては詳細不明であるが、京都泉桶寺に智盛の書状(1573年)があり、熊野神社棟札にも1576年の銘があるため、この頃はまだ生存が確認できる。
関連URL
支城。
大富山城より以前の城。
参考URL
大富山城 -備後の城ー
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/30