城データ
城名:蟻腰城
別名:蟻脇城
標高:365m
比高:20m
築城年:大永3年(1523)
城主:東左衛門尉政幸
場所:広島県庄原市西城町八鳥
北緯:東経:34.958030/133.126694
攻城記
市史跡 蟻越城跡
指定 昭和51年3月25日
所在地 庄原市西城町八鳥
西城川と八鳥川の合流点に突き出た小山で、後方陣ヶ丸に続く地形から名付けて蟻の腰という。
大永3年(久代記)宮氏の重臣・東兵部政幸の居館。政幸はざんげんにより大富山城主景盛に滅ぼされた。
東麓に菩提所極楽寺がある。城の規模は小さいが、東に八鳥川をはさんで、広峰山城、西に西城川をへだてて有田山の館と相対し、南方はひらけて遥かに大富山の本城を望む地の利を得た城構えである。
庄原市教育委員
城の麓。
極楽寺の墓が城の麓にある。
東政幸の墓もある。
山頂に進んでいく。
歴代極楽寺和尚の墓。
曲輪にも墓があるが基本削平地になっているので墓所にはもってこい。
一時は公園化されたのかもしれない。
本丸には社がある。
先にいくと堀切らしきものを発見。
こうしてみると、小さいながらもしっかりした造りだと思われる。
蟻腰城からは大富山城も確認できる。
八鳥川もあり天然の堀の役割をしている。
極楽寺【東政幸菩提寺】
先ほど本丸から覗いた部分で堀切だと思われる。
結構周囲は急斜面。
蟻腰城全景。
別の角度。
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【蟻腰城】
拡大図。
城の概要
山頂から南に六つの郭があり、北側尾根続きを掘り切っている。
南麓の水田は「二ノ丸」と言われていたが、ほ場整備に伴う試作調査の結果、遺構は確認されなかった。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
蟻腰城
○蟻腰城跡は久代宮氏の重臣東左衛門尉政幸の居城跡である。政幸は天文の頃、讒言によって大富山城主宮景盛に滅されたとされている。
○城跡は西城川と八鳥川との合流点に突き出た比高20mの丘陵(龍尾山)にあり、後方の陣ヶ丸台地に続く地形から名付けて蟻の腰という。
城の規模は小さいが、丘陵上には3段の郭が配置されており、南麓の水田は居館跡とされているし、東麓には菩提所の極楽寺がある。
城の西側は西城川をへだてて有田山の荒木館と相対し、南約4kmには大富山城を望み、地の利を得た城構えである
庄原市サイトより引用。
蟻腰城
西城の町は南北に細長い盆地で、南端の大富山城やその周辺の市街地(城下 町)が屏風を立てたような山々に囲まれているのに対し、北半分は、やや開け た田園風景が展開する。
蟻腰城は盆地のほぼ中央部、北から南に張り出した、なだらかな台地状の丘 陵先端に築かれており、大富山城からは約三畑北方に位置している。
もと城主東左衛門尉政幸は西城宮氏に属する毛利氏の付家老である。
彼は毛利元就の命により雲伯備中の境である要衝の地を守備するため、大富山城創建の祖である宮高盛の息女を妻に迎えて、この城に入った。
大永三年三月二十九日のことである。『久代記』によれば、知行二千五百石、大佐・八鳥・高尾・小鳥原 (以上西城町)、森・川鳥(東城町)の都合六か村を頷した。
彼は文武二道に優れ た軍略家で、宮氏の勢威は、彼の知謀によるところが大であったという。
域の周囲は西側を西城川が南流し、東側の八鳥川がこれに合流して濠の役割を果たしている。
北の背面は陣が丸塁に続く尾根を深さ一〇m余り切り落とし て大空堀が造られており、現在、堀の底を町道が通っている。
城はこの両川に挟まれた小丘陵と平地部とからなり、丘陵上には三段の郭が 北から南に一列に配置され、その南の斜面上に三段の小規模な郭が築かれてい る。
丘陵最頂部にある本丸と思われる郭は二二・四m×六mの長楕円形プランを呈し、西南隅が登り口になっている。
現在、秋葉・愛宕両社が鎮座し、周辺に建物の礎石と思われる切石が散見される。
二の丸は南の丘陵直下にあり、三〇m×四五mの広さで、二枚の水田となっ ているが、居館があったところと思われる。
また、東側の八鳥川と丘陵地との間 の水田も郭の一部と想定されるが、北側がどこまで延びるか、地境が明瞭でない。
城の東北部には城を背にして極楽寺がある。『芸藩通志』には、「仏通山と号 す。天文年間当村故城主東兵部政幸、創立、天正甲戌僧白翁中興、政幸の位牌 あり」としている。
宮氏は高盛のあと、興盛が天文九年(一五四〇)に急逝すると弟の景盛が跡を 継いだ。
しかし彼が暗愚であったため、家臣や近隣の諸氏とも摩擦を生じ、東政幸も讒を受けて攻撃されたが、家臣団の協力により無実が証明されたという 今『久代記』。
しかし、『芸藩通志』には、「讒を蒙り、景盛がため討れ、防ぎ戦 いしが、終に自殺して落城す」とあり、不明の点が多い。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
大永3年(1523):蟻腰城築城。
天文2年(1533):この頃菩提寺である極楽寺を創建。
天文5年(1536):備後国に侵攻した尼子勢を撃退。
天文9年(1540):久代記によると、8代目の宮興盛が早世し、弟である景盛が9代目を相続、しかし、彼は暗愚で、家臣の吉良采女の讒言を受けて討たれるとも、無実を証明する為に自害するともある。
城主家系図
城主(一族)石高
『久代記』によれば、知行二千五百石、大佐・八鳥・高尾・小鳥原 (以上西城町)、森・川鳥(東城町)の都合六か村を頷したとある。
1619年当時の石高
大佐村 653石
八鳥村 749石
高尾村 92石
小鳥原村 275石
竹森村 346石
川鳥村 519石
合計 2634石
となり確かに整合性がある。
所感
丸城としてはこじんまりしており攻められたらすぐに落城しそうな城であったが、天然の堀、城の周囲を切岸化しており案外耐えれたのかもしれない。
●久代宮氏は宮景友くらいから歴史に出てきておりそれ以前はよくわかっていない(久代記でも記載されていない)久代宮氏の庶流がいたのか不明であるが「宮東氏」やまたは「宮高氏」(名字が東や高)がいるので一族の庶家に連なる家と推測したい。
●蟻腰城に関しては諸説あるが、奸臣の吉良采女の讒言により征伐されたのか?それとも東政幸にも野望があり尼子に寝返ることによってこの久代宮氏を乗っ取ろうとしたという推測も成り立つ(戦国の世の常であり別に不思議では無い)
●所領が2500石とあるがこの所領は多いと思われる。1591年当時、宮氏惣領家で900石、山内氏で6700石、三吉氏で6100石とあるので有力国人で6000~7000石だとすれば、2500石はかなりのウェイトである、宮氏惣領家が1万石以上の石高で尚且つ、宮東氏が一族の中でも宿老クラスだとすれば整合性もあるが、それでも多いと思う。
関連URL
主家の本城。
参考URL
蟻腰城 -備後の城ー – 秋田の中世を歩く
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/30