城データ
城名:髙橋城
別名:生田城(いけだじょう)
標高:432m
比高:60m
築城年:不明
城主:髙橋氏(生田氏)
場所:広島県安芸高田市美土里町生田
北緯:東経:34.772021/132.609317
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
毛利興元の正室がこの城から出たのか、雪の方なのか全く資料が無い。
麓から登っていく。
軽トラでも登ってこれそう。
すぐに山頂に到着。
山頂には神社あった。
ただし荒れている。
本丸からの景色、この地域を支配するにはとても立地かもしれない。
先端に進む。
朽ちたお堂がある。
城の先端を降りていく。
石垣の跡発見。
下まで降りたが特に目立ったものは無い。
また本丸まで戻る。
余湖図【高橋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【高橋城】
城の概要
南西に延びる丘陵先端の背後に堀切を二条設け,城域を画している。
標高432mの1郭を中心として,前(南西)側に2・3郭,後(北東)側に4郭がある。
2郭には約3×5m,高さ約0.5mの植があり,周囲を石垣で囲んでいる。
4郭は道路や神社で破壊されているが,三段からなっているようであり,一部土塁の痕跡がみられる。
東側緩斜面には四つの小郭がある。また,5郭は道路で破壊されているが,ほぽ原状を留めているものと思われる。
この道路も元来の登城路を拡幅した可能性がある。堀切はともに土橋を削り残しているようである。
内側の堀切は4郭北側の鞍部を掘り切った後にさらに掘り込んで造ったようである。
本城跡は高橋一族生田氏の居城である。高橋氏は1529(享禄2)年滅亡するが,生田氏は本領を安堵されたようである。
しかし,1536・37(天文5・6)年に「生田城」「生田要害」を攻められ,それ以後毛利家臣に生田の所々が給地宛行される事例が多くみられ,
生田氏の勢力基盤もかなり縮小されたと考えられる。
生田氏は毛利家臣として生き残るが,城の使用については不明である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
生田村
戦国時代 には石見国阿須那(現島根県邑智郡邑智羽須美村)の藤掛城主高橋氏の領知する所で、村内にはその一族を配した高橋城があったが、毛利元就によって天文五年(一五三六)に落城、 以降は毛利氏の領知となった。
同一一年三月一八日付の粟屋氏宛元就判物(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)に「生田内先給遣候、可知行之状如件」とある。
城の歴史
文明8年(1476):髙橋命千代が益田兼堯・貞兼親子と取り交わした契約状の中に「生田右馬助秀光」の名前が現れる、髙橋一族の可能性が高い。
天文5年(1536):生田の城を児玉与八(就方)が攻めており新見彦四郎を討ち取り元就から感状を賜る
『萩藩閥閲録巻100児玉惣兵衛-8』
天文5年(1536):内藤小五郎が新見城(生田城)を切崩し、新見美作守を討ち取り、元就から感状を賜る。
『萩藩閥閲録巻118内藤彌兵衛-1』
天文6年(1537):岡又四郎(光良)が生田要害を攻めて元就から感状を賜る。
『萩藩閥閲録巻80岡吉左衛門-1』
天文6年(1537):山縣内蔵助が生田城を攻めて新藤彌左門を討ち取り、元就から感状を賜る。
『萩藩閥閲録巻129山縣惣兵衛-5』
天文11年(1542):粟屋縫殿(元宗)が元就から生田内の所領を賜る。
天文9年(1540):生田就光が生まれる。
天文19 (1550):生田氏が、元就の上意に従うことなどを誓約した家臣団の連署起請文に加わる。
※ただしこの生田氏が高橋一族の生田氏かは確証がない。
『毛利家文書401』
天文24年(1555):生田新五衛門が安芸国矢野城を攻めて敵頸1つを討ち取り、隆元、元就から感状を賜る。
『萩藩閥閲録遺漏巻1の2生田新右衛門-1』
高橋一族の可能性があるが確証は持てない。
永禄5年(1562):この頃高橋一族の生田就光が石見銀山の代官になる。
永禄12年(1569):生田就光、賀茂神社に狩野治部少輔筆の絵馬一対を奉納する。
大宅朝臣就光が阿須那の賀茂神社に奉納した一対の神馬図。高橋一族が名乗る「大宅朝臣」であり、 元就の「就」が上、高橋氏の字「光」を下にした 名前もつことから、毛利家臣となった高橋一族で あることがわかる。
この人物は生田を拠点とし、 毛利氏の銀山代官を務めた生田就光と考えられて いる。
城主家系図
諸々も家系図を複合して作成しているため、間違っている可能性あり。
※高橋氏が滅亡して家系図が残っていないことが原因。
生田就光
天文九年(一五四〇)生まれ。
永禄五年(一五六二)頃、毛利氏に石見銀山代官に補任。
同十年四月、杵築大社大日堂御室を造立。
同十一年 五月、石見銀山長楽寺造営事業を遂行。
同十二年八月、阿須那境 に狩野治部少輔筆の絵馬を奉納。
元就より偏諱を受けていることからも、 元就直属の家臣団の一人であったと思われる。
城主(一族)石高
高橋一族の生田氏かどうか不明であるが、記載する。
生田新五左衛門
65.292石
【内訳】
50.155石 備後 芦田
15.137石 安芸 高田
生田源七郎
5.573石 安芸 高田
所感
●敗者の氏族の為、この城がどのような歴史的経緯を進んでいったか不明であるが、何度か攻められており落城したものと思われる。
●城自体は戦国時代の一般的なもので、その集落を見渡せる丘陵地に築城。
●曲輪の数もそこそこあり、実戦を想定し実際に戦があったことが雰囲気として伝わる。
●古文書の中に新見氏が出てくるが、生田氏の家臣か、また新見氏は髙橋命千代が益田兼堯・貞兼親子と取り交わした契約状の中に「新見□後入道浄鳳」の名前が出ており、新見氏自身が高橋氏の重要家臣だったことが分かる。
※城で討死した新見氏はこの一族か。
●戦国末期の生田氏の所領が100石以下であり、族滅は防いだが大幅な勢力の縮小になり、また、閥閲録では農民になっているので最終的には毛利家中に生き残れなかったか。
関連URL
主家の居城。
参考URL
参考文献
『安芸高田市歴史民俗博物館図録 芸石国人高橋一族の興亡』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/12