城データ
城名:金山要害山城
別名:坂口要害山城
標高:150m
比高:130m
築城年:応仁年間(1467~69)ころか。
城主:宍道氏
場所:島根県松江市宍道町白石
北緯:東経:35.382108/132.918651
攻城記
JR南宍道駅から進む。
金山要害山
金山要害山は北側(宍道湖側)を正面とする山城で、海抜144mの頂上には、詰成(つめなり)と呼ぶ本丸跡が広がっている。
この城は出雲守護・京極高氏の孫・秀益が城を築いて宍道八郎と号した応仁年間(1467~69)から、天正年間(1573~92)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地であったことは間違いないであろう。
詰成(山頂)からは宍道湖、北山が一望でき、眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山が見通せる。また、のちに宍道氏が移り住んだ鳶が巣城は遥か北西に位置している。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があるが、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成が要害山にあるといわれる。
昭和63年3月宍道町教育委員会
しばらくすると神社がありそれを越えて10分位上ると最初の郭に到着。
曲輪。
築城技術に富んだ城。
斜面は急である。
堀切。
これは城の遺構ではなく、神社の遺構。
詰ノ成。
かなり広いのは分かる。
本丸跡。
●●成が多い事が分かる。
遠く宍道湖も見渡せる。
アップ、前方の山は宍道要害山城。
麓からみる詰ノ成。
虎口、この地域では珍しいらしい。
矢竹。
ニノ成。
多くの城兵の駐屯も可能。
現在は立派な看板もある。
金山要害山保存会より引用。
位置関係
支城の宍道要害山城もある。
余湖図【金山要害山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
有力国人宍道氏の本城にふさわしく、雄大な山塊に、地元で四十八成と呼ぶほど多数の郭を配置している。
宍道氏は、出雲侵攻戦に敗北した大内義隆に従って出雲を離れ、毛利元就に属して当城に復帰した。
したがって普請のほとんどは永禄五年(1562)以降のこと推定され、在来の出雲国人の縄張り観や普請技術を知る上での好例といえる。
また坂口谷の奥から、約2.7キロメートルの山肌を伝って、主郭東下方の馬洗い池まで水路を造って導水していることにも注目される。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城の歴史
南北朝時代:このころ出雲国守護の京極高秀の子どもである秀益が宍道に入部して宍道氏を名乗る。
天文9年(1540):この頃、尼子の有力家臣としての地位を得ていた。
天文12年(1543):大内氏が尼子氏の月山富田城を攻めた時に、尼子から大内氏に寝返る。しかし、大内氏の敗退で宍道氏も逃亡する。
永禄5年(1562):毛利氏の出雲侵攻により先陣をきって出雲に復帰する。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏改易、宍道氏も萩に移る。
宍道氏について
室町時代のいつ宍道氏がこの地に入部したか確実なことは不明であるが明徳の乱以降のことではないかと推測される。
(この宍道氏は出雲国守護京極氏の一族で、京極高秀の子八郎秀益に発するものといわれる、おそらく南北朝期に守護領となっていたものが京極秀益に分与されることによって宍道氏が成立したものと考えられる)
史料による所見は永享2年(1430)であり杵築大社三月会一番饗神物引付で「参貫文 同五月晦日 か`庄宍道殿さた、同」とある。
このか`庄とは今の島根郡の加賀庄のことでありそこを領有していた宍道氏の事であるが惣領ではないと思われる。
宍道氏の中には惣領の「八郎」のほか「六郎」、「九郎」を名乗る庶家も存在しておりそれぞれ一家を構えて独自の地域支配を展開した
加賀庄にいた宍道氏もそれらの庶家の一つだと考えられる。
宍道氏は文安年中(1444~1449)の室町幕府番帳案では外様衆47人のうちの一人としてみえ宍道秀藤が将軍家に太刀を進上するなど室町幕府やその奉公衆との間に独自のパイプをもっていた、さらに、秀藤の兄僧春陽との関係から京都相国寺などとも緊密な関係をもっていた。
そのためか宍道氏は当郷の一国人領主という地位以上の大きな勢力を持ち、尼子氏が戦国大名へと成長を遂げた15世紀末以降も同氏と肩を並べる地位を保持し続けた。
天文9年(1540)竹生島造営奉加帳では尼子氏の御一族衆として宍道八郎 宍道九郎が名を連れる。
(当時の宍道八郎は宍道経慶と考えられる)
しかし尼子氏が戦国大名ととして権力を強大化させるに従い宍道氏の存立と相容れなくなったらしく天文10年(1541)の大内氏の出雲侵入に際宍道氏は尼子氏に背いて大内方についたのみならず、惣領家はそのまま大内氏に従って出雲を退出してしまった。
結局庶家の「九郎」家が惣領となる。
何故出雲を退出したのか?
大きな勢力であった宍道氏であったが、尼子経久と宍道久慶との関係、それは経久が娘を久慶と娶らせ「久」の一字を与えたことからもうかがえるように、これを尼子氏権力のなかにうまく取り込むことにより主眼を置いたもので「一族衆」として優遇するというのがその政策基調であったと推測される。
これに対して孫の尼子晴久の場合、経久の制止を振り切って強引に吉田攻めを敢行したこと、あるいはこの後に新宮党の討伐などからも知られるように、権力の一元化と大名権力の専制化を目指すものであり、相容れない関係になったところを天文11年(1542)の大内氏の出雲侵攻で尼子家を背いて大内方についたものと考えたい。
城主家系図
宍道氏は元は尼子氏と同族で、有力な国衆であった、尼子氏とも婚姻関係を幾度と結ばれている。
宍道久慶は尼子経久の娘を娶っている、慶勝の母親が経久の娘の可能性もある。
宍道隆慶の母親は尼子国久の娘ということは判明している。
城主石高
1591年頃の所領。
宍道五郎兵衛(政慶)
6174.837石 長門 阿武
所感
●さすが出雲で一に二を争う国人だけあって城の規模や精緻さは抜群にいい。
●水の手が2,7キロ先の比丘尼池(現在は荒地)から馬洗池まで引かれていたが、比丘尼池の水面高度は140mで馬洗池の標高が124mだから、その高低差はわずか16mでしかない、したがって水路の平均勾配は、わずか0.59%程度となる、当時非常に高い測量技術をもっていたことが分かる。
●城は毛利が出雲平定して宍道氏の領内支配が安定してから整備されたものと考えられる。
●主郭に関してはまだ下草も少なかったが、二ノ成やそのほかの郭に関しては雑林や竹などで状況はよくなかった。
●宍道氏は調べれば調べるほど出雲の歴史の1ページを飾る有力国人なので興味がつきない。
関連URL
一族の城。
毛利の尼子征伐で返り咲いた後の居城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/26