城データ
城名:杉屋敷跡
別名:杉の土居
標高:37m
比高:0m
築城年:弘治3年(1557)頃杉元相によって築かれたと云われる
城主:杉元相、杉元宣
場所:山口県周南市徳山
北緯:東経:34.061383/131.816177
攻城記
遺構は全くない
動物園辺りもか
近くには祐綏神社がある
位置関係
城の概要
杉家屋敷跡
杉氏は大内氏につかえ、陶・内藤氏と並ぶ重臣でした。
中世の徳山は野上庄といわれ、一時、陶氏が領し、家臣野上氏を配置しました。 弘治元年(1555)、 厳島の戦で陶晴賢が敗死し、陶氏が滅ぶと野上氏も運命をともにしました。
杉氏宗家は陶氏との抗争で滅亡しましたが、 毛利元就に味方して軍功をあげた杉一族の杉元相は、 弘治3年(1557) 旧領の佐波郡大前・植松 (現防府市)に加えて、 野上 ・ 遠石の両庄を与えられ、 金剛山の山麓のこの地に居館を構えました。
その子元宣も毛利輝元に仕えて軍功がありましたが、 天正17年(1589)年に野上庄沖で横死し、杉氏は断絶しました。 杉元相・ 元宣父子の墓所は、興元寺にあります。
周南市教育委員会
看板より引用
河合裕が編纂した『徳山藩記』には、
一正保元年甲申從十一月十二日,至十二月十八日野上杉家屋敷之構ヲ割為三田畠、北南六拾一間、西東四拾一間、堀横拾間、深四間半云々とあり、江戸時代の初期には一部にまだ堀が残存して いた。
『寺社由来』には、正徳四年(一七一四)に毛利元次が興元寺寺領五拾石を喜捨した物を載せ、一書にその説明として、
一境内寺敷畠八畝高八斗四升四合二句
一境外畠七段二畝、 高七石五斗九升八合八勺
此分開基杉氏屋敷跡也
右両処共、 知行高五拾石之内江相、残り浮米渡シ相成来候
とあって、これを今の六尺一間の坪に直せば、前者は八反九畝二五歩、後者は八反四畝一五歩となって両者ともに大差なく、 これによって杉氏居館の規模をうかがうことができる。
『徳山市史』より引用
城の歴史
弘治3年(1557):このころ杉元相によって築かれたと云われる
天正17年(1589):杉元宣が野上庄沖でて横死する(杉家断絶)
城主家系図
所感
●現在は全くなにも残っていない。
●杉氏2代の居館であり、歴史のなかに埋もれていった。
●屋敷自体は8反位あるので広さは十分ある
関連URL
参考URL
参考文献
『徳山市史』
『日本城郭大系』13
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2025/08/17