城データ
城名:末武城
別名:城山
標高:135m
比高:89m
築城年:不明
城主:末武氏、内藤氏
場所:山口県下松市末武上
北緯:東経:34.028760/131.872530
攻城記
下松護国神社から進む
山添招魂社(維新十三人墓)
慶応2年(1866年)萩藩の仰せ付により、馬関戦争(1863年)、禁門の変(1864年)における都濃宰判(※)出身の戦死者四柱を奉斎し、山添招魂社と号する。
その後、戊辰戦争等の戦死者九柱を合祀し、明治7年(1874年)官祭となる。
昭和14年(1939年)下松市制施行にともない、「下松護国神社」と改称。
明治維新以降、日清日露戦役を含め、太平洋戦争終結までの国難 に殉じた、下松市出身の英霊一千四十四柱を奉斎している。
※判(さいばん)とは、当時の代官の管轄する地域を指します。
下松市 下松市観光協会
山道を進んでいく
鉄塔までくればもうすぐ
眼下を望む
鉄塔から進んでいく
削平地
堀切
山頂部分
本丸部分
ユートピア神社というのが不明
末武三郎戦死地
余湖図【末武城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
花岡の上高塚にある。 高塚は城山の麓に千人塚という塚があるので、それによって名づけられたといわれる。その千人塚もいまは存在しない。
寛保元年(一七四一) 十二月の庄屋の報告によれば、山峰に一町四方ほどの平地の段があり、井戸の跡もある。
また東尾には馬乗馬場(犬走り) と思われる平 地があると見えているが、現在ではその跡をとどめていない。
『古城跡記』に大内氏の家臣末武助三郎弘勝の居城とある。 弘勝は弘藤を誤っ たもので、助三郎弘藤は大内氏二十代弘貞の次子で、「大内系図」に「以防州 都郡末武村為三栄邑」とある。居地によって氏としたのである。
末武中 (下松市)の字東河原に、堀・土井縄の小字地がある。 豪族の居館にゆ かりの地名である。 末武氏の館跡ではあるまいか。
のちに内藤藤時が末武上村を領した。観応三年(正平七、一三五二)八月日の 軍忠状に「右自最前為御方構城槨於所領末武庄、差塞御敵之通路」之処、 大内孫太郎弘世巳下周防国凶徒等、今年二月九日寄来鷲頭荘白坂山取 陣、十九廿両日御合戦之時、馳向彼陣、後巻所、抽忠節也、次彼凶徒閏 二月十七日重寄来高志垣之間、自末武城同日馳参当城」とある。
ほかに 内藤氏の城跡という所はないので、弘藤の古城を居城としていたものと思われる。
『日本城郭大系』13より引用
末武川と平田川に挟まれた平野北東部に 丘陵性山地があり、 その西端の山頂部に位置する。
眼下には、平田川と平野が広がり、 瀬戸内海を眺望できる立地にある。
城域は 北西 南東 98m、 北東 南西 61mである。 郭Iは長さ48m、 幅 11mの細長い平坦面であり、 北西の先端部は通路状に細く延 び、その斜面に竪堀が2条設けられる。
郭の北西と南東の1段下にはそれぞれ 曲輪がある対称的な配置をなすが、 南東側の曲輪はやや大きい。
一方、北西側の曲輪 の下には竪堀らしき痕跡がある。 また、 郭 Iの東側尾根筋は堀切によって遮断される。
『地下上申』、『閥閲』 には、 正平7年(1352) 大内弘世に対する応戦のため築城したとある ( 『閥閲』 巻99/2 内藤小源太)。
城の歴史
正平7年(1352):大内弘世に対する応戦のため築城。
城主家系図
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2025/08/17