城データ
城名:山口城
別名:山口御屋形、山口御館
標高:45m
比高:-
築城年:文久3年(1863)
城主:毛利敬親
場所:山口県山口市滝町
北緯:東経:34.184994/131.470921
攻城記
山口藩庁門
土塀
水堀
位置関係
全国Q地図より【山口城】5mメッシュ
余湖図【山口城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
長州藩は、文久2年(1862)、 藩論が破約攘夷 に転換すると、攘夷に備えて城地を内陸部 に移すこととし、新城地選定の作業に入った。
沿海の地では直接異国艦船からの脅威にさら され、防御戦闘に耐えられないとの理由で あった。
沿海の地を避けて藩内に移鎮の地を 求めるとき、 地域経済の発達状況や交通の 利便性だけでなく、かつて大内氏によるまちづくりが行われた藩央の地山口は、長州藩の 政治的・軍事的拠点となる適地であった。
その 山口移鎮は、文久3年(1863) 4月16日に実行 された。
一方、 城地の最終選定作業は難航し、一致した結論を得ないまま、5月10日からの攘夷戦闘に突入した。
結果は報復を受けて惨敗であった。 海軍艦船を失った長州藩では、防備を陸上に移し、山口周辺に関門 (関所)・砲台場 などを急造し、防備の強化をはかった。
城地が 山口県庁の現在地で決着したのは7月18日で あったと推定される。
これら一連の防備構築を 中心になって推進したのが、 周布政之助や兼重 慎一であった。
山口御屋形(山口城) はその後大村益次郎らの意見も入れ、 元治元年(1864)正月の地開き、 5月の斧始めの儀を経て、10月16日、洋式の稜堡式城郭として完成するが、 直後の第一次 長州出兵の結果、 破却された。
再建は慶応元年(1865) 4月に始まり、翌年 5月藩主初入城、 その後第二次長州出兵(四境 戦争) や戊辰戦争をはさんで、明治のはじめに 及んでいる。
看板より
城の歴史
文久3年(1863):山口城への移転が決まる
元治元年(1864):城が完成するが藩主は保守派の台頭により萩に戻る
慶應元年(1865):反論が統一されて再び萩から山口に移る
慶應2年(1866):破却部の修繕が完了した山口城に敬親が写る
明治2年:「山口屋形」の称をやめ「山口藩議事館」と名称を変更する
所感
●幕末に建てられた城で近代的な要素も盛り込まれている
●城門は立派で圧巻、隣には土塀もあり雰囲気でている
●堀も健在で攻めにくい城になっている
関連URL
参考URL
参考文献
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』
『日本城郭大系』13
公開日2025/08/11