城データ
城名:大内氏築山跡
別名:無し
標高:39m
比高:ー
築城年:14世紀末から17世紀前半
城主:大内氏
場所:山口県山口市上竪小路字築山
北緯:東経:34.185882/131.478560
攻城記
大内氏の家紋がある
築地が保存されている
背面
築地
位置関係
全国Q地図より【築山跡】5mメッシュ
築地が見える
余湖図【築山跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
【戦後すぐの航空写真】
城の概要
史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
築山跡
昭和三四年一一月二七日国指定
ここは大内氏二八代教弘が一五世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。
築山館は教弘以後歴代当主の居館となったところです。
中世の連歌師宗紙は「池はうみこずゑは夏の深山かな」と 詠んでおりこの句からかつて豪華であった庭の様子が忍ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが園池の跡は残っていたといわれています。
しかし この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています.
現在指定地内の北西隅にかぎの手に土塁築地が 残っていますが往時の館の規模を示す造構として重要です。
また指定地内には八坂神社本殿が国指定重要文化財と築山神社があります。
管理団体山口市
『看板』より
山口盆地の東北、一の坂川が形成した扇状地の扇央部に位置する。
標高は約39mである。 廃絶後 の近代には八坂神社、築山神社の境内地となる。
南側には大内氏代々の守護所であった大内氏館跡が 隣接する(185 「大内氏館跡」)。
当地を築山跡と称するのは、江戸時代中期の 『行程記』に、大内教 弘が構えた居所があり、 教弘を築山殿と称されるからとある。 昭和34年(1959) 史跡「大内氏遺 跡附凌雲寺跡」の一つとして国史跡に指定された。
昭和52年度から平成 26 年度まで山口市教育委 員会が発掘調査を実施し、 時期や構造が明らかとなってきた。
調査の成果より築山跡の時期区分は、大内I・II式:14世紀末から15世紀前半、 大内III式: 15 世紀後半から16世紀初頭、大内IV式: 16世紀前半~中頃、大内V式: 16世紀後半、大内氏VI式: 16世紀末から17世紀前半の5期に設定されている。
これを基にした築山跡の変遷の概略は次のとおりである。
築山跡では、堀を掘削し屋敷地としての 区画が明らかとなるのは大内III式の時期である。
その後堀を短期間で埋め戻し、そこに新たな出入口 施設を構えている。
その後は敷地全体を20~30cm盛士による整地を行い、大改修を行う。大内IV 式の時期に大型の遺構 (SK1) が掘り込まれ、埋没する。
大内V式には土坑がわずかにあるだけで、 明確な土地利用は明らかでない。
つまり屋敷地としてあったのは当初の限定された期間であり、その 後は屋敷地とは異なる利用形態の変化があったと判断される。
後述するように敷地は宗教施設に移行 した可能性がある。
検出された遺構は、掘立柱建物跡、堀、 土塁、溝、方形石組、土坑などである。
館跡のように多様な建物跡は発見され ず、掘立柱建物跡のみである。
瓦が出土 していることから瓦葺き建物があったと みられるが、礎石建物の痕跡は今のとこ ろ確認されていない。
出土遺物は、土師器、瓦質土器、備前 焼、貿易陶磁器、 瓦、 銭貨、 鉄製品、 石 製品、鞴羽口などである。
堀は南堀と東堀が確認された。これか ら築山跡は南と東の堀で囲まれた単郭の 屋敷地とみられる。
なお南堀と東堀は南 東隅で確認されていないことから、両者 は繋がっていない。
堀の規模は南堀が幅 3m以上、 深さ1m以上、長さ45m以 上で断面不整形なV字形。東堀は上端 幅3m、 下端幅 1.5m、 深さ1m、長さ20m。
断面は北端で逆台形で、 それからV字形へと変化し、南端では箱形を呈する。
堀の内側には土塁や板塀のような遮断施設は確認されていない。なお東堀の南端は途切れており、出入口があったとみられる。
土塁は屋敷跡の北西隅にL字の形で残存し、「築地跡」と呼ばれる。
西辺は長さ50m、幅14m、 高さ3m、北辺は長さ 40 m 幅 10m、高さ2~3m。西は断面台形で上端は幅10mの平坦をなし、 外面には石垣があったと考えられる。
盛土内の出土遺物から構築時期は大内III式以前とみられている。
築地跡は西辺と北辺の途中で終わっていることから、それぞれに出入口があった可能性がある。
築地跡と堀が敷地を区画するものとすると、 築山跡の大きさは南北 140m、東西 140mとなる。
堀の掘削時期は大内III式で、埋没もこの時期におさまるとみられる。
築山跡には連歌師宗祇が築山跡の大きな池を詠んだとされる発句があることから、庭園が存在する 可能性があるが、調査範囲内ではそれに関わる遺構は確認されていない。
そのため 『拾塵和歌集』の 詞書に記述された庭園を指す「山水」は、館跡にあるような人工的な庭園ではなく、自然景観のまま の庭園であった可能性もある。
敷地内の遺構からは、大内氏館跡のように大量の土師器皿を一括廃棄した土坑は確認されていない。
そのため築山跡では大規模な儀礼や宴会は行われなかったとみられる。
貿易陶磁器は館跡に比べると 少数であり、16世紀以降に増加する傾向にある。
これらの調査成果を文献史料とあわせて築山跡の変遷をまとめると次の通りである。
屋敷地として機能したのは大内III式 (15世紀後半から16世紀初頭)とみられ、この時期の当主 は大内教弘である。
当初の屋敷地は、教弘の居所であった、または教弘は政弘に当主を譲り、別々の 居所を構えることから教弘、 政弘のいずれかの屋敷であった、あるいは、文安元年(1444)館の焼 失に伴う仮住まいであった、 などの可能性があげられる。
屋敷地は短期間で南堀、東堀が埋め戻されたことから、これにより廃絶したとみられる。
おそらく 教弘の死を契機としたのであろう。教弘は死後政弘により築山霊神に神格化したとみられ、これは文献史料にみる「筑山ノ祠」 (『県史中』1蔗軒日禄)、「築山社頭」(『山口市史史料編』 大内氏壁書)、「築 山大明神」(『常栄寺史料』大内殿先祖次第)から推測され、祠、 廟とされる施設が敷地内に設けられ た可能性が高い。
つまり調査で判明した20~30cmの盛土は、 教弘を祀る祠等をつくり、敷地を宗 教施設へと移行するための大規模な改修を示している。
延徳4年(1492) に発布された「築地之上 構桟敷事」では、 祇園会の築地の上で見物すること、敷地内の御宝殿や、鎮守の辺りに集まることな どを禁止しており、この内容からも屋敷地ではなく、 宗教施設の存在を窺わせるものである。
この後寛文6年(1666)には築山境内が氷上山山王社に寄進されていることから、これにより教 弘を祭る宗教施設としての役割は終えたとみられる。
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用
城の歴史
・大内教弘によって築かれたとされる。
・14世紀末から始まり17世紀前半まで随時改変されたと思われる
所感
●神社境内になっておりぱっと見はここに築山があったとは思えない。
●良く観察すると、裏に築地があり雰囲気が分かる。
●イメージイラストがあれば分かりやすい。
関連URL
参考URL
参考文献
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用
『日本城郭大系』13
公開日2025/08/10