城データ
城名:大内氏館跡(現在は龍福寺)
別名:無し
標高:38m
比高:1m
築城年:正平15年(1360年)頃に大内弘世によって築かれたと伝わる。
城主:歴代大内氏
場所:山口県山口市大殿大路
北緯:東経:34.184542/131.479762
攻城記
現在は龍福寺になっている。
寺域は当時の館からすれば半分くらいの面積か。
趣を感じる。
早速館域に入ってみる。
宝現霊社
大内義隆供養塔
辞世の句
龍福寺本堂
立派な本堂。
復元ざれた池泉がある。
復元ざれた土塁(北面)
大内義隆像
西国大名一の大内氏の館跡なので当時はとんでもなく豪華だったでしょう。
阿弥陀如来
毛利元就画像
位置関係
全国Q地図MapLibre版より【大内館跡】
余湖図【大内氏館跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
昭和22年頃の航空写真
現在の航空写真
明治時代の地図
城の概要
大殿大路の東西線と接着し、北は野田町に至る西隅の範囲が館跡で竜福寺域がその中心をなす。
大内弘世が防・長・石三国の守護となり、爾後、歴代数国の守護を 義長に至るまで九代の間、周防をはじめ分国の政務を司っていた所である。
大内氏が山口に居館を移したのは南北朝時代、弘世の時といわれる。
山口は東・北・西の三方に山を連ね、南に口を開く盆地状の小平野であってその間を椹野(ふしの)川が南に貫流し、中世豪族が拠った典型的な地形を示している。
館は四至を正して西南に向かっており、大殿大路はその正面の大路である。
四方に堀を造り、その土をもって土塁としたのである。
大内氏滅亡後弘治三年(一五五七)、毛利隆元は義隆の七回忌に当たり菩提寺として、もと白石にあった竜福寺を館跡に再興した。
隆元が建立した堂宇は、明治十四年の火災のため禅堂と山門を残して全焼した。
現在の本堂はその再建に際し、大内村(山口市)の氷上にあった大内氏の氏寺興隆寺の釈迦堂を移したもので、室町時代の代表的寺院建築として重要文化財に指定されている。
現在、館跡としての堀や土居は住宅地となり、ほとんど痕跡をとどめないが、 山門の両脇に、わずかにそれらしい名残を見ることができる。
『日本城郭大系14』より一部引用。
城の歴史
正平15年(1360)頃:大内弘世によって築かれたと伝わる。
天文20年(1551):大寧寺の変にて大内義隆が亡くなる。
弘治2年(1556):毛利元就が侵攻し、大内義長は館から逃亡し館としての役割を終える。
弘治3年(1557):毛利隆元が義父の義隆の七回忌に当たり菩提寺とする
永禄12年(1569):大内義輝が乱を起こす、その時龍福寺を本営としている。
城主家系図
所感
●歩いて散策したが、想像していたよりも広い、寺域は館跡よりも狭いので、当時は広大な館が広がっていたと思われる。
●資料館も中にあり、古地図や発掘品なども展示されているので行くことをお勧めする。
●泉亭の復元もされており、そこだけ切り取ると中世の雰囲気が感じられる。
●また北側には土塁も復元さえており想いを馳せれる。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
公開日2025/06/07