城データ
城名:岸和田古城
別名:照日山・岸の城
標高:10m
比高:3m
築城年:建武元年(1334)
城主:和田新兵衛高家
場所:大阪府岸和田市野田町
北緯:東経:34.457774/135.377902
攻城記
岸和田古城跡
通称「照日山」と呼ばれている小さな高まりがあったこの地には、大正10年に大阪府により「和田氏居城伝説地」と刻まれた石柱が設置されていました。
14世紀前半に楠木正成の一族である和田高家が「岸」とよばれていた当地に城郭を築いたことから「岸の和田」、すなわち「岸和」という地名が起こったという伝承にちなんだものですが、この伝承は江戸時代になってからいわれはじめたようです。
江戸時代につくられた「岸和田古城図」(大阪歴史博物館所蔵)には、「本城」・「二ノ郭」・「二之郭」などが記載されています。
平成18年から翌19年にかけて高まり部分の発掘調査が行なわれ、濠や土塁、カマドなどが見つかりました。
発掘調査の結果は、古城図と合致する部分が多く、この場所が古城図の「本城」にあたる可能性が高いこともわかりました。
「本城」部分は、15世紀後半に築造され16世紀初頭には廃絶していたと考えられます。
また「岸和田古城図」を参考にすると、古城の範囲は東方の岸城中学校付近まで広がっていたことが推測されます。
現在は何も残っていない。
位置関係
1960年当時の航空写真
僅かに微高地が残っている。
余湖図【岸和田古城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要・歴史
南海本線岸和田駅の北方六〇〇mの所に松林の一画があり、その中央に一〇aばかりの小高い場所がある。
中央に「和田氏居城伝説地」の石標が建てられていて、西側は低地となっている。
ここは応永七年(一四〇〇)、足利義満によって石清水八幡宮に寄進された 「岸和田庄」が成立する前、建武元年の建武中興の功によって、摂津・河内・和泉三国の守護に任ぜられた楠木正成が、一族の和田新兵衛高家を遣わした所といわれる。
しかし、その場所に関しても諸説あって、漠然と掃守郷岸の地とするもの、あるいは、小寺・池の尻(現在の上町)あたりとするものもあり、不明確である。
また、岸の地と東に接する浄金剛院領であったとされる「沼間荘」との関係もはっきりしない。
和田氏が下向したおり、老臣、沼(間)氏と女形氏を、城の左右に付城として置いたとの伝承もあり、また和田氏がその菩提寺としたという東光寺の跡が字「東光寺」として、旧岸と沼の両地域にまたがっていることなどから、大阪府の建碑も伝説地としている。
はじめ岸の城といわれ、のち和田氏居城の地ということから「岸の和田」の 地名となったとされる。
また和田氏の一族が多かったので、吉野の和田氏を上の和田氏というのに対し、岸の和田と呼んだともいわれる。
さらに『紀伊続風土記』古和田村の条に、和田氏はこの村にあった城から岸の地に移ったとしており、その故地であるので古和田村となったとしている。
しかし同じ頃、岸和田氏を名のる大輔房定智らが楠木氏に属して戦っており、『淡輪文書』に見える代官舎弟大輔房が、『和田文書』に見える岸和田大輔房定智と思われ、岸和 田の地名がすでにあったことも考えられ、和田氏の土着の時期にも疑問が残されている。
古城の地の北に接して「番頭上」なる地名があり、その西の古城川沿いには 「手代町」があって、中世の代官=番頭の住居を示すものではないかと考えら れており、その周囲が「百姓町」となっている。
岸から、岸の和田、岸和田庄となった範囲をみると、明治二十二年の町村制によって岸和田村となった地域と考えられ、旧岸和田村水利に属する天正三年(一五七五)の松浦肥前守の建立にかかる岸和田池の灌溉区域と一致する。
それはまた、現在の南町の西端近く に残る条里坪割の「一ノ坪」を起点とするおおよそ十二丁(一三〇0m)四方、 すなわち条里四里分の地域とも合致するようである。
この岸和田の区域の中で城地の移動・拡大があったわけであるが、当初の古城とみられるものは、やはりその地域の東南側にあったとする伝承が多い。『かりそめのひとりごと』は、「和田氏城をとりたてゝすめりしは、今の百姓町の 東にて、方一町余なりし、今は田となりて、字を城星鋪という」と記しており、 「天正三年、定岸之池見舞給之事」の岸和田池建立時の見舞給田の中には、城 ノ前・ハントカへ、の地名も見られる。
元禄年間(一六八八ー一七〇四)の古城図には、本丸・二の曲輪・周濠の図示が見られるが、その当時の解釈による部分もある。
『岸城古今記』には「建武年中、和田新兵衛高家、初而城を築き在城也、当時の城、二三町 東の由、小寺・池の尻辺 と相聞ゆ」と見える。
実際に池の尻には「城下 池」もあり、新町と呼ぶ、 方一〇〇mばかりの区画 された小溝をめぐらす一 画もあることなどから、 現在の城地に移るまで、 いく度かの変動があった とみるのが妥当のようである。
所感
●現在は何も無いが、周囲は若干高くなっている。
●当時は海岸付近の城だったのではないか?
●和田氏の城で岸和田(岸は海岸?) 海岸付近に住んでいる和田氏というか?
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』12
公開日2024/06/01