城データ
城名:清滝城
別名:伊毛慈掛城(いもじがけじょう)
標高:598m
比高:310m
築城年:戦国時代か
城主:財満氏
場所:広島県東広島市志和東~八本町町宗吉
北緯:東経:34.471383/132.697987
攻城記
清滝城全景。
入り口があったので進む。
このままいけば楽勝と思ったが、その後道が無くなり、しかも腰まであるシダで行く手を阻まれ断念。
本当はここから行けるはずだが、土砂災害にて砂防ダムを建設して道が無くなる。
断念したが、いつかまだ攻城チャレンジ!!
位置関係
open-hinataより【清滝城】
余湖図【清滝城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【イモジガケ城】
城の概要
東側の最高所の1郭を中心とした郭群と,その西の尾根上にある郭群とに分かれる。
1郭は西辺に土塁をもち,東側には一段低くなっているところがある。この部分は桝形的機能をもつと考えられる。
1郭の北・東・南の三方には1郭と比高約10mで郭を配している。
西側の郭群は1郭との間,及び西と南に延びる尾根筋を断ち切る位置に堀切を置いている。
西端には虎口があり,そこから南端の帯郭状の通路を通って南側の堀切から城外に出ていたと考えられ,麓の清滝寺へはこの通路によって連絡していたようである。
城主は飯田に本拠をもつ財満氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
清滝城
飯田と志和町志和東只との境いにある深堂山(標高五九七・六)を東北へ下ったところにある。
石垣にしたらしい石などもある。茶臼の形をしており地元の人は「茶臼山城」ともよんでいる。
村境であるため志和側ではこれを「伊毛慈掛城」とよんでいるのと同一と思われる。
岡本清徳氏の「賀茂郡古城史」によれば、いもじがけとは「鋳物師」「いかけや」の意で、昔この山麓に「いかけや」がいたらしく、現今でも金くそが残っている。とある。
そうするとこの城跡は西条側と志和側とに両面の顔をもっていることになる。 というのは、山陽行程記に「此古城ハ清竹ノ城ト云、往古コノ城ハ財満市之進居城之由、麓ニ 之進守本尊ト云、今有」とあり、飯田村に早く入って来た財満氏の居城であったことである。
財満氏は菅原氏で氏神として天神を祀る。
かつて今の川上小学校々地に天満宮(のち川上神社へ合祀) があったのは、その財満氏のそれではなかったかと推測している。
薬師堂は今も現存しており、飯田に土塁を潰している城仏は財満氏の土居であったという伝承もある。
また、清滝古寺跡はこの城跡のすぐ下の谷にあって、城主がここに八幡菩薩を勧請して祈願所としたと伝 えている。
『賀茂郡史』-中世武士編-より引用
城の歴史
詳細不明。
城主が財満氏ということしか分からない。
代々大内氏に属していた。
城主家系図
城主(一族)石高
大内氏に仕えていた時は1000貫から1500貫だったらしい。
久方、興久らは飯田村100貫の地を有するとある。
※「平賀家文書」に「飯田村百貫才満孫太良、才満新右衛門知行」とある。
財満孫太郎(就久)
988.333石
内訳
924.303石 長門 厚東
64.030石 安芸 賀茂
財満忠貞
毛利元就より160石を賜るとある。
財満 神右衛門
93.750石 備後 神石
所感
●以前は整備されていたと思われるが、今は土砂災害で今までのルートでは山頂までいけず。
●登り口はあるが、道が無くなっているため、行くなら直登を覚悟。
●いつかリベンジしたいが比高が300m以上あるので、地元の知った方とでないと無理か。
●財満氏で有名なのは隆久(入道宗因)で槌山城で立て籠もって毛利側に攻められる。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『賀茂郡史』-中世武士編-
『志和町史』
『賀茂郡古城史』
公開日2024/05/26