城データ
城名:三ツ城
別名:無し
標高:237m
比高:10m
築城年:古墳時代及び戦国時代
城主:平賀広相
場所:広島県東広島市西条町御薗宇
北緯:東経:34.416139/132.733806
攻城記
古墳を利用した山城。
堀切に見える。
遠景。
1960年代の航空写真
今でこそ古墳で整備されているが、少し前までただの山であった。
位置関係
open-hinataより【三ツ城】
余湖図【三ツ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【三ツ城】
城の概要
前方後円墳と円境を利用した城跡と考えられる。
史跡三ツ城古墳保存整備事業に伴う発掘調査では,墳丘上で中世の遺構は確認できなかったが,古墳東側水田内では柱穴が検出され,土師質土器,陶磁器,魚住窯すり鉢などが出土している。
城主は,平賀氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
大永3年(1523)に尼子経久が安芸拠点である鏡山城を攻めた時に、平賀氏も尼子氏に付き従う、鏡山城の戦いにて戦功を立てる。陣ヶ平山と八幡山城に陣を構えた、この三ツ城も尼子方の城として古墳を城にしたのではないか?
※この年尼子経久から久芳保・寺町など600貫余りの地を与えられる。
城主家系図
『芸藩通志』では
三城 同村にあり、平賀廣相、所居、
とあるが当時まで広相は生まれていない。
城主(一族)石高
平賀氏の所領として14,251.652石とあるが、三ツ城辺りの所領がどのくらいかは不明。
ただし、鏡山城攻城の頃に尼子経久から久芳(400貫)・寺町之中(216貫)など600貫余りの地を与えられる。
『萩藩閥閲録』巻124ノ2 149より
所感
●『芸藩通志』では平賀広相とあるが大永3年当時広相は生まれていない為、父である興貞か祖父である弘保が城主であったと思われる。
●鏡山城を囲む為に何重にも城を築いた1つだと思われる。
●古墳として整備されており山城感はない、また古墳としての説明はあるが城としての説明はない。
関連URL
平賀氏家臣の城
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/23