城データ
城名:篠尾城
別名:無し
標高:29.2m
比高:28m
築城年:戦国時代か
城主:大永4年(1524)に大内方家臣である、吉見頼興、杉、内藤等は陣取ったとある。
場所:広島県廿日市市天神
北緯:東経:34.357081/132.339018
攻城記
廿日市の駅から天神方面に進む。
麓から見上げると天神はかなり高い事がわかる(約30m)
篠尾地区。
天満宮にまずは進む。
眺望。
篠尾山に方面に進んでいく。
現在は正覚院がある。
現在は墓所となり原型を留めていない。
反対方向から。
昔は竹藪だった。
一番高いところも2m削られたらしい。
最高所。
前方に岩戸尾城が見える。
桜尾城方向。
発掘調査をしたがなにも出なかった。
位置関係
1960年代の航空写真
現在のグーグルアース
余湖図【在りし日の篠尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【篠尾城】
open-hinataに作図
着色部分は当時海と推測。
友田興藤の立て籠もる桜尾城は海に囲まれて城で、それを大内方の岩戸尾城と篠尾城で囲んでいる状況が分かる。
城の概要と歴史
六 篠尾城
篠尾城は、天満神社と正覚院のある天神山の峯続き、標高二九。二米の篠尾山にあった。
現在墓地となっている附近に堀切を設けて、篠尾山を独立させていたものと思われ、頂上に 二段の平壇があるが、後世の建築、畑地等によるものか、城の遺構か不明である。
最高所本丸の広さ約二三〇平方米、二之壇約 一七〇平方米ある。
七尾城(芸藩通志にいう)の一つである、篠尾城が文書に出てくるのは、房顕覚書の大永四年(一五二四)の頃に「天神山篠尾」とある。
大永三年(一五二三)四月一一日、友田興藤 が銀山城の武田光和らの協力により、厳島神主 となり大内氏の拠点の兵を追放した。
大永四年(一五二四)春大内義興は、大軍を率いて安芸に入り、桜尾城を攻めんとして、吉見三河守頼興、杉、内藤氏は篠尾 城に陣取った。
七月二六日天神山で、糸賀平左衛門尉等神領衆と合戦している。
以降は文書に見えないが、桜尾城の出城 とし存続し、厳島合戦後に廃城となったものと思われる。
『桜尾城とその時代』より引用。
所感
●戦前までは竹藪であったが、戦後に埋立地を造成するために山を削ったらしい。
●平成の終わりころまではまだ竹藪であったが、墓所造成の為に整地された。
●正覚院自体の歴史は古くこの地にあったので、その先端に城があったものと思われる。
関連URL
参考URL
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/09