城データ
城名:岩戸尾城
別名:岩戸城(当時は尾はついていなかったのでは)
標高:57.5m
比高:55m
築城年:戦国時代か
城主:陶尾張守興房(陶晴賢の父) 正式には陣城に滞在していた部将。
場所:広島県廿日市市佐方
北緯:東経:34.362161/132.343441
現在は山陽女子の学校敷地内になっている。
攻城記
当時はこの城の麓まで海だったと思われる。
西国街道。
城域には入れないが雰囲気は分かる。
急峻なのが分かる。
攻めにくい地形。
学校内敷地方面。
僅かに山林が残っている。
殆どが学校の敷地内で削平されている。
極楽寺山からみた岩戸尾城。
戦後すぐの航空写真
戦後すぐの写真でもすでに開発されていた。
現在の航空写真。
戦前の地形図
位置関係
『芸藩通志』【岩戸尾城】
城の概要と歴史
五 岩戸尾城
岩戸尾城は、現在山陽女学園のある岩戸山で、削 平され旧状はとどめていない。
岩戸山は当時海に臨 んでおり、城山麓より船を出していたものと思われ 七尾城(芸藩通志にいう)の一つである岩戸尾城 が、文書に見えるのは大永四年(一五二四)の友田興藤感状、及び房顕覚書に「岩戸山」とあり、文政 二年(一八一九)の国郡志御用に付郡辻書出帳には岩戸尾城となっている。
桜尾城を巡る攻防の頃には「尾」がついていなかったものと思われる。
大永三年(一五二三)四月一一日友田興藤が、銀山城の武田光和らの協力により厳島神主となり、大 内氏の拠点の兵を各所に追放した。
大永四年(一五二四)大内義興は、大軍を率いて安芸に入り桜尾城、銀山城を攻めんと、 興房(晴賢の父)が陣取り桜尾城を取囲んだ。
七月二六日岩戸山で、糸賀平左告 神領衆と合戦をした。
同年義興と興藤の和議がなり、引きつづいて興房は岩戸山に居た。
大永五年(一五二五)正月元日陶興房は、岩戸山から厳島の義興の元に年賀の挨拶に向い、五日興房は岩戸山で「又一重山あたらしき霞哉」の発句の連歌を興行した。
二月一〇日に興房は、 岩戸山より厳島に向い棚守宅で義興を饗応した。
興房と一諸に在陣していた次郎興次(興昌)は、三月病に罹り一八日に岩戸山より船で防州に帰国した 。
岩戸山に陣していた興房は、四月五日矢野(広島市安芸区)に渡り後、志和(東広島市の米山城に陣を移した。
岩戸尾城は、周防守護代であった陶興房が約一年間も在陣しており、相当の施設があったものと思われる。
以降は文書に見えないが、桜尾城の出城として存続し、厳島合戦後に廃城となろう。
『桜尾城とその時代』より引用
所感
●城の規模としては桜尾城よりも大きく、大内方の陶興房が対友田興藤の籠る桜尾城対策としてしっかりとした陣城を造っていたと思われる。
●当時、この辺りは海であり、桜尾城への眺望もよかった。
●戦前にはすでに開発が進められており、どのような遺構であったか不明。
関連URL
参考URL
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/09