城データ

城名:第三台場

別名:無し

標高:7m

比高:7m

築城年:1854年

城主:無し

場所:東京都港区

北緯:東経:35.633680/139.771967

第三台場はここ

 

攻城記

お台場海浜公園駅から徒歩で15分くらい。

道なりに歩いていく。

案内板。

中心部に入っていく。

中は広い。

石垣があるが詳細は不明。

フジテレビの社屋も見える。

反対付近はビル群。

中央陣屋跡。

奥に進んでいく。

瓦があるが当時のものか。

石垣跡、何かの建物があったか。

レインボーブリッジが見える。

造りは急ごしらえにしては精巧。

別角度。

 

位置関係

左の台場は第三台場。

 

余湖図【第三台場】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

江戸湾の台場

嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリー提督に率 いられた四隻のアメリカ艦隊が江戸湾に入ってき た。

 

「これは未だ見たこともなき蒸気仕掛の軍艦にて、其進退極て自由」(『嘉永日記』より)であり、江戸市中の世情は騒然とした。

 

幕府は江戸近辺を固め臨戦体制をしいたが動揺と混乱はなかなか沈静するものではなかった。

 

ペリーは国書を幕府に提出し来春までに回答するよう要求し、羽田沖まで近づき威嚇の轟砲を放って去って行った。

 

幕府は若年寄本多忠徳・勘定奉行川路聖謨や韮山代官江川太郎左衛門英竜等に江戸湾防備の方策をまとめるよう命じた。

 

彼等は湾内の状況を調査し、内海防備の充実のために台場の築造を進言した。

 

献策の内容は一二か所の砲台築造で、工事費は町人や豪農からの上納金でまかなうこととした。

 

そして八月には江川太郎左衛門を奉行とし、これを高島秋帆が補佐し昼夜兼行で工事を開始した。

 

築造に用いる土砂は芝泉岳寺の山・品川御殿山などを崩して当てた。

 

土運びのために目黒川の水路は変えられ、東海道も迂廻させられた。

 

徴用された舟は二〇〇〇艘、人夫五〇〇〇人を数えたと いう。

 

不景気にあえいでいた江戸市内はこの大工事のため一時的に好景気を呈したほどだった。

 

特に品川の遊女屋や高輪の店屋がにぎわったという。

 

お台場の土かつぎ(かたげ) 先きで飯喰って 二百と五十 などという俗謡が唄われたのはこの時である。

 

だが、一方ではあまりの重労働で死亡する者も出たほどであった。

 

中略

 

 

土砂のほか用いられた石は三浦半島・伊豆半島 や房総半島方面から運び込まれたものであった (『港区史』参照)。

 

かくして、嘉永七年四月までには第一・二・三 台場が完成し、十一月までには第五・六台場及び 品川猟師町台場が竣工した。

 

ペリーが再び江戸湾に入ってきたのは、台場が 一つも完成を見ない時(嘉永七年正月十四日)であり、十六日には羽田沖に七隻の軍艦が姿を現わした。

 

幕府は非常態勢をしいたが、江戸の市民達は 黒艦見物に出る者が多かったという。

 

二月十一日、幕府はペリーと第一回交渉を横浜で開き、三月三日には日米和親条約が調印され、 家康以来の祖法であった鎖国政策はここで放棄されたのである。

 

八月には日露和親条約も調印され、 続いてフランス、オランダとも調印するに到った。

 

このように国際情勢が大きく変化したためと、 台場築造費が予想外にかかったことも重なり、第 四・七台場は工事を中断し、その他は未着手のままになった。

 

落首に次のものがあったと伝えている。

丈夫そうで不安心なものは―-房相の御台場

当りそうで当らぬものは――大筒の的

こわそうでこわくないものは―-海岸の大筒、 芝居の化物

 

(以上『東京百年史』より) そして当時の「すたり物」の中に「品川の御台 場」が数えられていた。

(段木一行)

 

『日本城郭大系第五巻』より引用

 

城の歴史

嘉永6年(1853):ペリーが浦賀に来航、幕府は江戸海防強化の必要性を痛感。

また、江川英龍の指揮により御台場11基の建設着手。

 

嘉永7年(1854)7月:第一・第二・第三台場竣工

 

嘉永7年(1854)11月:第五・六台場・御殿山下台場竣工

 

戦前の地図

 

所感

●僅かな時間でこのクラスの台場が出来るのが驚き。

 

●海に造るためどのように工事を進めていったのか気になる。

 

●当時は陣屋にどのくらいの人員が待機していたのであろうか?

 

参考URL

お台場(ウッキペディア)

品川、第3台場

 

 

公開日2023/10/08

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