城データ
城名:江戸城
別名:千代田城、江城
標高:28m
比高:25m
築城年:1457年:太田道灌 扇谷上杉氏 北条氏 1590年以降:徳川氏
城主:太田道灌 扇谷上杉氏 北条氏 徳川氏
場所:東京都千代田区
北緯:東経:35.688283/139.754346
攻城記
大手門
実際の門、でかい。
中は枡形虎口になっている。
重厚感満載、大名はここから入っていた。
門がとにかくでかい。
内部に進む。
番所跡
切込みハギの石垣。
百人番所。
奥に進んでいく。
城っぽくなってきた。
横矢になっている。
テレビの時代劇にでてくる場所。
アップ。
汐見坂、当時はここから海が見えたから。
左部分。
ここら辺の石垣は積み方が切込みハギ。
奥に進む。
ここは綺麗な切込みハギ。
本丸に到着。
そのまま進むと北桔橋門に着く。
天守台まで戻る。
石垣の造りが丁寧。
竹林ゾーン
こんなものまである。
富士見多聞。
中は多門櫓になっている。
富士見多聞から蓮池濠を望む。
本丸大芝生。
富士見櫓(現存櫓)
中が確認出来ないのが残念。
下っていく。
中之門までいろんな石垣ある。
中之門。
汐見坂から平川門へいく途中の石垣。
天神濠
平川門手前の石垣。
ここも枡形虎口になっている。
反対側から。
竹橋からの風景。
竹橋を望む。
江戸城外苑
滅茶苦茶広い。
一番有名な画像。
伏見櫓と伏見多聞
古い時代の石垣か。
皇居正門。
二重橋(今は二重ではない)
カッコいい!!
桜田門遠景。
門は二重になっている。
夕焼けが映えて美しい。
楠木正成像
坂下門。
坂下門アップ。
桔梗門に向かう。
当時の雰囲気満載。
巽櫓
左から富士見櫓、桔梗門,巽櫓
富士見櫓と桔梗門
堀を出て終わる。
余湖図【江戸城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
德川時代
天正十八年(一五九〇)、小田原北条氏は豊臣秀吉の前に屈し、同年八月一日、 徳川家康は正式に江戸城に入った。
関東八か国二百五十万石を与えられた大大名にとって、江戸城はあまりにも貧弱であった。
『落穂集』によると、城内に術葺きの建物は一棟もなく、すべて日光そぎ(削)・甲州そぎという粉板を並べた粗末な板葺き屋根で、台所は茅葺きで古く、玄関は船板を用い、板敷の部屋がなく土間であったという。
しかし、とりあえずは応急的な修理のみにとど めたという。
これは秀吉に対する遠慮からであった。
文禄元年(一五九二)は秀吉が朝鮮出兵を督励する目的で肥前名護屋へ赴いた年である。
家康はこれに随行しているが、この間、江戸城の第一期工事が始められている。
西の丸を中心としたもので、普請奉行は天野清兵衛と山本帯刀がつとめ、三か年にわたっている。
家康は引続き秀吉の命により伏見城の普請にあたっていた。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦で家康は勝利をおさめたが、これによってただちに江戸城の大改修を行なったわけではなく、もっぱら対豊臣の戦略をめぐらし、意を関西に向けている。
しかし、江戸城改築は市街地そのものを含めて行なう必要があることを痛感しており、計画は着々とねられていた。
慶長の大改修は、慶長十一年から開始されている。慶長の第一次改修は前半を西日本の諸大名が手伝い、本丸・二の丸・三の丸および維子橋から溜池落口までの外郭の石垣をほぼ完成し、天守閣の土台石垣の築造を終了した。
この工 事には、高十万石について百人持ちの石一一二〇個を割り当て、伊豆方面から 運んでいる。
石船は三千艘を数え、一艘に百人持ちの石二個を積み、月に二回運び入れた。
難破した船も多かったという。また、多量の石灰を必要としたた め、武蔵多摩郡成木村・小村から運ぶための青梅街道(成木街道)が開かれ ている。
後半の工事は主として東日本の大名たちが手伝いを命ぜられ、天守閣その他を完成した。
特に天守閣は関東の諸大名が担当し、主として石材を上州中瀬辺から利根川を使って江戸湾に搬入している。
石垣上辺の広さは約二十間四方で、 この上に五層の天守閣が建てられた。
しかし、天下制覇のシンボルともいうべ きこの大天守閣は、明暦三年(一六五七)一月の樹袖火事に遭って焼け落ち、その後、再建されていない。
慶長の第二次改修工事は、慶長十五、十六年の西の丸の修築、同十九年の石垣の修築工事であるが、石垣の工事は大坂の陣、家康の死亡などにより中断し、 元和四年(一六一八)に再開されている。
再開工事は引続いて神田御茶ノ水の掘割工事なども含まれ、主として軍事上の防備として城郭の外回りに重点が置か れた。
寛永の大改築は、第三期工事で三代将軍家光の時代で ある。
寛永六年(一六二九)から開始された工事は、江戸 城の総仕上げ工事ともいえる。
第一次工事は石垣・桝形 の築造が主であり、同十二、十三年の第二次工事は、赤 坂・四谷・市谷・牛込を結ぶ堀と、神田川の水を引くための掘割造成工事で、世にいう「三十六見附」が整備された。
以上、約半世紀にわたる江戸城の建設は、わが国城郭史の総集編とも呼ぶべき歴史的な大事業であり、全大名に命じてわが国の労力と財力を出し尽くして造りあげたものである。
江戸の町は、江戸城を中心にして計画された都市であ り、町は城の外壁であり外堀でもあった。
すなわち、江 戸の都市全体は運命共同体としての性格を持つ世界でも特異な都市である。
江戸の町は渦巻状都市とかサザエ状都市とかいわれている。町全体が江戸城の延長上に計画され、江戸城を攻撃する者にとって、当時、最新兵器で あった大砲を使用できないように工夫されていた。
江戸は武都として計画され、外敵の攻撃への対応に全精力を傾けて造られた都市であった。
しかし、やがて江戸の市民たちは経済面でイニシアチブを握り、武士の生 活そのものを支配するようになってゆく。
江戸時代の後半になると、江戸は町人の都市へと変質していった。
武都は内部から歴史的矛盾を露呈したのである。 江戸城は最高権力者の力を具象化したものとしての性 格上、諸大名を使役し、わが国の財力を傾注して約七〇 年間という長年月にわたって築城したものであるから、 つぎに築城の経過をわかりやすく示す略年表を掲げる。 (『江戸と城下町』鈴木理生著より)
後略
『日本城郭大系第五巻』より引用
所感
●日本一の城として申し分ない江戸城、ただし、現存している建築物が少ない。
●門は沢山ありどれも迫力がある、皇居内の為入れない門もあり写真が撮れないのが残念。
●テレビでいつも写っている二重橋付近はやはり絵になる。
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公開日2023/10/08