城データ
城名:松笠城(仮)
別名:無し
標高:240m
比高:170m
築城年:不明(大永7年あたりに使用か)
城主:不明(戸坂氏若しくは武田氏家臣か)
場所:広島県広島市東区戸坂
北緯:東経:34.438478/132.497866
攻城記
重氏稲荷神社を目指す。
お稲荷さんがいるので進む。
ここから進んでいる。
国土地理院の地図には道があるが、現場は直登。
1/3位進んだところ。
一旦道なりにすすみ、そこから更に直登する。
尾根先にに到着。
曲輪の最先端部分。
削平地が広がっていく
土塁跡か。
少しこんもりしている。
城域先端部分。
反対報告から確認。
このような削平地が段々になっていいる。
切岸のようにも見える。
更にその上の段。
削平地は藪化しておらず進みやすい。
下を望む。
やはり切岸っぽい。
本丸辺りに到着。
綺麗な削平地が広がる。
この道を進むとまた登山道に行くようであるが、途中でやはり道が無くなる。
この辺り、そのまま上に行こうとしたが、道も無いため、元来た道を引き返す。
途中熊のひっかき傷のようなものを発見。
危なかった。
位置関係
open-hinataより【松笠城(仮)】
城の概要
大永七年、銀山城主武田光和は大内方と当城で戦った。大内方の築城か。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
詳細不明。
大永7年(1527)の戦いの可能性を示唆されている。
松笠山合戦 〜大永7年(1527)5月13日〜
「中山村史』によれば、「大永7年(1527)に、大内勢が府中で頑強に抵抗する武田方の白井氏を攻めているが、尾長から中山に越える「大内越峠」の名前は、大内軍がこの峠を越えて府中井氏を攻撃したことから付けられたものという。
「大内軍は5月5日府中城の攻ていたが、同月13日に白井氏救援の武田勢が背後に押し寄せ、松笠山で合戦が行われている。」とある。
註:1527年 芸府要害 白井備中守後詰武田勢・松笠山7月18日仁保島并に国府城詰口(大内義興)と府中町歴史民俗資料館の掲示物に記載されている。
また『戸坂村史』には「大内勢は、この合戦で戸坂や玖村(現安佐北区落合)まで攻め込んだが、府中城さえ落とす事ができなかった。戸坂の北側、小田の松笠山で合戦が行われたのはこの年の5月13日であった。やがて、享禄元年(1528)に大内義興が死去し、大内方は攻撃を一時中断せざるをえなくなる。」と記載されている。
この松笠山の合戦は、武田氏の配下である白井氏を大内氏から守るための軍事行動であるが、武田方の防御線からみても、戸坂城ー戸坂松笠山-中山田原城一鏡山城というルートを確保できれば、府中の白井氏を救うことができると考えられたため、府中は重要なものであった
『中山村史』より。
当然、戸坂を所領としている戸坂氏も、この合戦で武田の支配下の部将として大内軍との戦いに参加していたものと思われる。
所感
●『日本城郭大系』13にしか記載のない城であり、本当に城跡かは専門家の調査が必要。
※城ではなく、観音寺奥の院の関連施設かもしれない。
●武田氏の対大内対策として築城と考えることも出来る。
●松笠城と仮定しても近隣の戸坂城や戸坂支城に比べてしっかりと削平地がある。
関連URL
参考文献
『中山村史』
『戸坂村史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』