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城データ

城名:高松城

別名:無し

標高:5m

比高:5m

築城年:16世紀前半か

城主:石川氏、清水宗治、花房正成、花房職之 など

場所:岡山県岡山市北区高松

北緯:東経:34.692381/133.822098

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※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

実は落城後にも城は維持管理されて、徳川時代にも陣屋があったらしい。

 

清水宗治の首塚。

宝篋印塔の残欠を重ねている。

石碑。

 

蛙が鼻築堤跡

 

 

位置関係

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城域は東西 160 m、南北 390 mと大規模である。城跡は北西から南東にかけて弧状に広がる微高地上に築かれており、その周辺は旧河道や沼地に囲まれていたと考えられる。

 

城跡周辺には「本丸」「城南」「城ノ下」「東沼」「北沼」「大池」「西沼」「大沼」「沼田」「八反堀」などの小字が残っている
ことから、おおよその縄張りを推定することができる。「伝高松古城の図」(文献 132 高田 1965)によると、微高地の北西側に土壇をもつ本丸、中央部分に二の丸、南東側に三の丸があり、これらを取り囲むように微高地の北側には堀又は低湿地を挟んで家中屋敷があるほか、微高地の周辺は沼地に囲まれていることが推定されている。

 

現在、本丸と二の丸は高松城址公園、三の丸や家中屋敷の辺りは宅地、田畑などに利用されている。

 

本丸跡と二の丸跡の縁辺は 1975 年に岡山市教育委員会と岡山市遺跡調査団、三の丸跡の南側は1997 年度に岡山市教育委員会によって発掘調査が実施された(文献 185・186 岡山市教育委員会1976・2000)。本丸跡は一辺 100 m前後の方形を呈し、標高 7.7 m、比高 1.8 ~ 2.3 mである。本丸跡土壇外周縁では捨石が確認されている。微高地の末端局部付近に設けられた捨石は、旧自然堤防の微高地を利用して城郭を構築するにあたり、城郭構造の基底部の崩壊や浸食を防ぐための工作物と考えられている。

 

本丸跡と二の丸跡の間は幅 50 m前後の堀で区切られている。二の丸跡は東西 100m、東辺 80 m、西辺 60 mの梯形を呈し、標高 5 ~ 6 mである。周縁部では捨石は設けられていないことが確認された。

 

二の丸跡と三の丸跡との間は幅 20 mの堀で区切られている可能性がある。三の丸跡は一辺 140 m前後の不整方形を呈する。三の丸跡の発掘調査では弥生時代、古墳時代、中世、近世の遺構・遺物が見つかった。

 

特に三の丸跡の南側では城郭の外周に掘られた堀と推定される溝8・9、その南東側は湿地であることが確認された。加えて、『萩藩閥閲録』には城内に「木屋」を急造したことが記されている。

 

また、水攻め関連遺跡として、水を堰き止めたと考えられる高松城水攻め築堤跡(岡山市北区立田・高松・福崎)、鳴谷川を堰き止めて峠を切り開く工事を行った高松城水攻め鳴谷川遺跡(同市北区長野)があげられる。

 

さらに近隣には城主清水宗治の首塚や胴塚、自刃の地、「ごうやぶ」遺跡などの縁の場所がある。

 

このうち、首塚については、明治 42(1909)年に和気房右エ門氏らが発掘し、骨片、素焼の酒盃、懐剣、擂鉢、首瓶などが見つかったようである。

遺物としては、本丸跡と二の丸跡周辺では瓦類、灯明皿、陶磁器、木製食器、建材、文英の石仏、小石仏、五輪塔、弥生土器、土師器、須恵器などがある。

 

なかでも本丸跡南側で見つかった 1590 年に比定される五三の桐文様の軒丸瓦は注目される。

 

このほか、高松地区やその周辺で採集された遺物のうち、高松城関連の瓦や陶磁器がある程度含まれる。

 

本丸跡や三の丸跡で採集された近世初頭の瓦の整理によって、天正元(1573)年からの清水宗治期に葺かれていた確実な瓦はなく、仮に瓦葺き建物があったとしても本丸の南側の一画に限定的であった可能性があること、天正 10(1582)年を経て続く花房正成期の瓦は本丸跡を中心に認められること、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦を経た花房職之期に瓦が膨大に増え、瓦葺き建物が飛躍的に進んだことな
どが示唆されている(文献 187)。

 

なお、二の丸跡や家中屋敷跡では瓦は採集されていないようである。

 

文献・伝承 

 

備中高松城は天正年間以前、三村氏の武将であった石川氏によって築城されたと伝わる。

 

その後、石川氏の娘婿となった清水宗治が城主となった。

 

天正 10(1582)年、織田信長は西国の毛利氏を制圧するため、羽柴秀吉を総大将として高松城攻めを進めた。

 

同年正月下旬、小早川隆景は備前との国境を守る七城の諸城主を備後の三原城に招集し、信長の中国攻めに対して警戒を命じるとともに、順次勤番する手立てなどを評議した。

 

3月 15 日、
秀吉は備前に出向き、高松城攻めに先立ち蜂須賀正勝と黒田孝高を使者として送り、宗治に備中・備後二か国を与えることを条件に味方するように交渉したが、宗治は承諾せず、毛利氏に忠義を尽くした。

 

同年4月上旬、秀吉は軍勢を整え、高松城から北西に 3.3㎞ほど離れた備中国賀陽郡足守(岡山市北区足守)へ先陣として宇喜多勢を送って毛利勢と対峙した。

 

そして、4月 14 日に龍王山に陣を置いた秀吉は、激しい攻防の末、周辺の毛利方の諸城を攻略し、やがて冠山城を落城、宮路山城を開
城させた。それから秀吉は龍王山から石井山に陣を移し、周辺に羽柴秀長、堀尾吉晴、黒田孝高、仙石秀久、羽柴秀勝、宇喜多忠家、津田信任、加藤清正らを布陣させ、5月には高松城を完全に包囲した。

 

その間、4月 27 日、秀吉は高松城を包囲し、多くの軍勢をもって攻略しようとしたが、討死は数百人に達したと伝えられる。

 

また、周辺では5月3日ごろには鴨庄城の東の丸が落ち、間もなく日幡城も落城した。

 

一方、高松城は沼に囲まれた自然の要害で難攻不落とされ、小早川隆景の援護を得て応戦し、堅守していた。

 

秀吉は兵の消耗を避け、長期戦に持ち込むべく、高松城の南面の蛙ヶ鼻(岡山市北区立田・高松)から足守川(同市北区福崎)まで約 2.5㎞にわたって、幅 12 間、高さ4間の堤を築いたうえ、足守川の水を引き込んで堰き止めるだけでなく、龍王山北東麓の峠を開削して鳴谷川からも導水することで、高松城を水攻めする策を講じた。

 

ちょうど梅雨の時季とも重なり、日ごとに水かさが増した結果、高松城の周囲は水没していった。

 

これに対し、毛利勢は岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景が陣を構えたほか、天神山、寺山、服部山、幸山にも配置され、さらに後詰めとして毛利輝元が猿掛城に入ったが、高松城は通路を断たれて孤立していった。

 

そこで、毛利氏は安国寺恵瓊を秀吉のもとに遣わして講和交渉に入った。

 

秀吉は「伯耆は矢走川に限り、備中は河辺川に限る」と主張したほか、毛利側が中国から撤退した後に清水長左衛門(宗治)の切腹を要求するという厳しい条件を出したが、輝元は聞き入れることができずに交渉は行き詰まった。

 

天正 10(1582)年6月2日、京都の本能寺では謀反を起こした明智光秀によって織田信長が討たれた。

 

この本能寺の変を契機に高松城水攻めは急展開を迎える。信長の横死を知った秀吉はただちに講和を結ぶべく、領地の譲歩や城兵の助命などを条件に恵瓊を介して毛利氏と再び交渉を進めた。

 

そして、6月4日に宗治が自刃することで和睦が成立し、高松城は開城となった。その直後、秀吉は光秀を討伐するため、高松から引き上げて京に向けて軍勢の大移動を行い、天下統一への道を切り開いていった。

 

高松城水攻めの末、和睦となってからは、高松城には秀吉方の杉原七郎左衛門尉が城番として在城した。

 

その後、宇喜多氏の武将である花房正成が居城し、城を大幅に改修していったとされる。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後はかつて宇喜多氏の武将だった花房職之が徳川氏の旗本として入部した。

 

高松城や水攻めに関わる文献は多いなか、毛利氏と備中南部の国人層の動向については『萩藩閥閲録』に詳しく記されているほか、高松城水攻めの様子は『中国兵乱記』や『陰徳太平記』などで伝えられて
いる。 (米田)

 

『岡山県中世城館跡総合調査報告書 備中』より引用。

 

城の歴史

天正年間(1573~92)以前に石川氏によって築城されたと云われる。

 

天正10年(1582):豊臣秀吉により水攻めにあい城主の清水宗治自刃する。

 

天正10年以降:秀吉方の杉原七郎左衛門尉が城番となり、その後宇喜多氏の武将である花房正成が居城し、城を大幅に改修したとされる。

 

慶長5年(1600):関ヶ原合戦後は花房職之が徳川氏の旗本として入部する。

城主家系図

石川久孝が高松城の城主かどうかは不明。

 

所感

●現在は公園化しており、城の遺構で目立ったものはない。

 

●確かに比高は5m余りで水攻めをすれば簡単に水没できそうな雰囲気をうけた。

 

●清水宗治の首塚の宝篋印塔をよく見ると下の基壇に地蔵が2つある、これはこの周辺の特徴ある基壇で備後国の久代宮氏関係でよくみられる特徴を有している。

 

関連URL

【岡山県】岡山城【岡山市北区丸の内】

参考URL

備中高松城跡 – 岡山県ホームページ

備中高松城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備中高松城)

武家家伝 備中石川氏

清水宗治(ウッキペディア)

武家家伝 花房氏

花房識之(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『萩藩諸家系図譜』

 

公開日2022/07/18

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