城データ

城名:近江城

別名:無し

標高:62m

比高:40m

築城年:南北朝時代

城主:光成氏

場所:広島県福山市駅家町大字上山守

北緯:東経:34.529485/133.322262

近江城はここ

 

攻城記

光成氏の菩提寺であった金剛寺を入り登っていく。

金剛寺側面を登る。

元弘忠臣

光成新三郎興家の墓

がある。

更に上を登ると古い五輪塔あり。

一石五輪塔も多くある。

この墓の上が城域になる。

上に上がったところ。

道なりに進む。

本丸に到着。

近江城址。

光成光繁がこの碑を建立したらしい。

本丸から南の曲輪を下る。

曲輪。

更に下る。

一番下。

本丸まで戻りそこから別の曲輪に行く。

 

金剛寺【光成氏菩提寺】

古い五輪塔も多くある。

 

位置関係

近江城の光成氏は相方城の有地氏に従っていたらしい。

 

open-hinataより【近江城】

 

余湖図【近江城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

芦田川南岸の東西に延びる丘陵から北に半島状に突き出した丘陵に城跡がある。

 

東西に延びる丘陵とは幅10mの堀切によって区切っている。

 

山頂部に主郭を置き,四方に郭を配している。特に北東下の現在寺のある空間を囲むように,北と東に延びる尾根には遺構が多数確認できるので,ここに館跡が想定できる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

上山守村

中世、備後守護土肥実平の末葉土肥盛家が延文元年(一三五六)石成庄の地頭となって来住、その一族が山守村に住して光成氏を称したと伝える。

 

光成氏が当地を領していたことは、当地に近江城を築き、山麓 の真言宗金剛寺を菩提寺とし、同寺墓地に光成氏の墓と伝える五輪塔があることからうなずける。

 

『広島県の地名』より一分引用。

 

近江城

近江城は、神辺平野南側の低丘陵上にある山城で、元弘の乱の時に桜山茲俊の挙兵に従った光成氏の居城である。

 

位置としては、神辺平野を形成する芦田川の南岸から延びる低丘陵上にある。

 

丘陵頂部からは眼下の芦田川を隔てて広く神辺平野一帯を見渡すことができ、比高約四〇mの低丘陵上に立地しながら展望だけは開けた位置にあるといえよう。

 

しかし位置的に芦田川に接し、また東南方の有地の谷から流れ出る有地川 の合流点に当たっているため、周辺の耕地は狭く、領地経営には必ずしも適しているとはいえない。

 

城の歴史はほどんど不明である。

 

ただ城主である光成氏については 年(元弘元、一三三一)の元弘の変で桜山茲俊に従った光成興家(土肥盛平)が知られている。

 

興家は、元弘の乱での出陣のおり山麓の菩提寺金剛寺に仁王一対 を寄進したといわれており、それは現在まで伝わっている。

 

しかし、この乱では敗れ、桜山茲俊は一族と共に自害したが、光成興家は生き残ったものらしく、 後には北朝方である西隣の福田の利鎌山城主福田盛次に従ったとされている。

 

その後についてはほとんど記録がないが、文安年間(一四四四~四九)には土居(光成)守平なる人物がいたらしく、また、光成氏は天文年間(一五三二~五五 )には利鎌山城主福田久重を滅ぼした有地降信に従ったともされている。

 

以上のことから、光成氏は元弘の乱後も長くこの城にいたものと考えられる。

 

城は、南から北方神辺平野へ向って延びる低丘陵先端を利用したもので、両 側にはこれと同様な二本の低丘陵がならんでいる。

 

郭群は、背後の細い尾根を 二本空堀で区切って城域とし、その先端を利用したもので、大きくはその中央が 鞍部に穿った空堀で南北二群の郭群に分かれる。

 

南側郭群は、本丸と呼ばれるもので、頂部に長さ約三〇mの平坦面を設け、 その一部を物見状に一段高くしている。

 

西北方に一段下って、長さ一〇mの二 つの郭を配し、さらにそれを帯郭でつないでいる。

 

北側郭群は、南側郭群との間を浅い空堀で区切ったもので階段状をなす三郭からなる。

 

また、これらの郭群に挟まれ谷状をなす微高地には、光成氏の菩提寺金剛寺 があるが、その境内は広く、あるいは平時の居館として用いられたのではあるまいか。

 

このように、低丘陵両側を空堀で区切って城域とし、それに挾まれた直下の 微高地に書提寺を置く例としては、対岸西方の桜山茲俊のいた桜山城があり、 当城主光成氏が桜山茲俊に従ったという文献からの記述のみでなく、城の構築 に当たっても強く影響されていたことがわかる。

 

城の歴史

南北朝の頃に築城。

 

弘元元年(1331):桜山玆俊が楠木正成に呼応して挙兵すると光成氏も一緒に行動する。

 

弘元2年(1332):桜山城が落城して桜山玆俊は自害するが光成氏は生き残る。

※この後、北朝方の利鎌城主の福田盛次に従う。

 

文安年間(1444~49);この頃光成守平という人物が活躍する。

 

天文年間(1532~55):この頃、利鎌城主の福田久重を滅ぼした有地隆信に従う。

 

慶長5年(1600)::関ケ原の戦いにて廃城となる。

光成氏は帰農したか。

 

城主家系図

関係は不明。

 

所感

●微丘陵地に城を構えているが、見晴らしもよく、芦田川北方もよく観察できたと思われる。

 

●菩提寺だった金剛寺が館跡だと推測される。

 

●城域はしっかりと加工されており小ぶりながらも数百年この地に在地領主として君臨していただけのことはある。

 

●光成氏の墓は見ごたえあり(いつの頃のものかは不明)

 

関連URL

【広島県】相方城【福山市新市町大字相方】

戦国末期の主君であった有地氏の城。

 

参考URL

城郭放浪記(備後近江城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/04

 

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