城データ
城名:神島城(かしまじょう)
別名:無し
標高:22m
比高:18m
築城年:不明
城主:久保兵部、佐波氏、名倉氏らも関係を指摘される、槇木島昭光が一番有名。
場所:広島県福山市神島町
北緯:東経:34.485530/133.341528
攻城記
現在は八幡神社になっている。
最初の曲輪
八幡宮。
現在曲輪の跡は西神島公園となっている。
曲輪跡。
当時は福山湾が真下まであった。
更に登っていく。
頂上部。
石鉄神社が祀られている。
その奥には矢竹が繁っている。
下をのぞき込む。
戻る。
城域には法然寺があるが卵塔墓は住職の墓だと思われる。
古い五輪塔や宝篋印塔の残欠。
当時の推定海岸線
イメージ。
open-hinataより【神島城】
余湖図【神島城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
主郭は25m×35mの規模を持つ最も大きな郭で,最高所の郭は物見台と思われる。
主郭の南下の郭群は八幡社・駐車場・墓地・寺院となっているので,原状をどの程度留めているか,不明である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
城主はまず「備後古城記」に久保兵部の名がある。
その後、佐波城の佐波氏、名倉氏らもその支配下におさめていたものと考えられる。
有名なものは槇木島昭光で昭光は足利義昭の家臣で、義昭が鞆の浦にいた時に付き従った家臣であった。
義昭は1576~87まで鞆の浦や津之郷に在住していた為、この10年強の間に昭光が城主だったと思われる。
※津之郷の東が神島になる。
またこの地域は神島市がたち、当時は活気のあった場所で、税収も見込まれていたのではないか。
神島は山陽道に近く、城下には「神島市」の繁栄があり、海の玄関口である鞆にも近い。事実、豊臣勝俊や細川幽斎は、鞆から昭光の取次で「公儀御座所(義昭の居館)へ参上し、昭光の館で「蹴鞠」を楽しんだことが知られている(九州道の記など)。
※神島城と槇木島昭光(福山市西神島町)より。
備後の津、公儀御座所、鞆などが記載されている。
『九州道の記』より
所感
●現在は八幡宮、公園、寺、墓所などがあり、当時の姿がどこまで残っているか不明。
●当時は福山湾に接しており、港や市などが近隣にあったことから大いに賑わっていたと思われる。
●古い五輪塔や宝篋印塔が城域には残っており当時を偲ぶことが出来る。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/04