城データ

城名:相方城

別名:佐賀田城、鬼ヶ滝加山城

標高:191m

比高:170m

築城年:天正年間(1573〜92)初期に有地若狭守元盛によって築かれたと云われる

城主:有地氏

場所:広島県福山市新市町大字相方

北緯:東経:34.547804/133.264576

相方城はここ

 

攻城記

広島県史跡 相方城跡 (さがたじょうあと)

標高191mの通称「城山」の山頂を中心にして、東西1000m、南北約500mの範囲に城郭遺構が分布する大規模な山城である。

芦田川を挟んで正面に見える亀寿山城(標高139m)を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた宮氏一族の有地氏などにより16世紀前半には、中世山城として整備されていた。

 

天文21(1552)年に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部に給地替えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。

 

その後は、毛利氏の直轄城となり、当方備えを目的とした近世城郭として整備され、関が原の戦い(1600年)による毛利氏の撤退によって相方城は廃城となった。

 

前方には亀寿山城が見える。

近代城郭と見間違えるほど立派な石垣。

素晴らしい石垣で江戸時代の城といっても分からない位。

現在は曲輪跡に建物が建っている。

曲輪跡。

相方城全景。

 

位置関係

 

open-hinataより【相方城】

 

 

余湖図【相方城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城の遺構は,山頂部の堀切を挟んで東西の郭群と,これから東に派生する尾根上の郭群からなる。

 

山頂部の郭群は石垣が多用されており,特に東郭群の西端は桝形門の郭となっている。

 

そしてここから東へは横矢邪が6ヵ所連続して設けられている。

 

これらの郭からは瓦や土師質土器が採取されている。

 

西郭群にも石垣が使用されており,中心となる郭の西端には櫓台状の土塁があり,その西下には4条の堀切が設けられている。

 

東に派生する尾根上の郭群は尾根の位置や堀切によって三つの郭群に分けられると思われるが,工業団地や住宅団地造成に伴って発掘調査が実施されている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

相方城跡 新市町相方

相方山(加井山・城山とも。一九一メートル)にあり、相方・ 新市、中須(現府中市)などを一望できる堅固な山城である。

 

大永年中(一五ニ一~ニ八)には有地氏(亀寿山城主宮氏の 一族)の家臣馬屋原監物が守城したが、天正年中(一五七三~-九二)には有地氏の本拠となったという(福山志料)。

 

有地氏系図(「閥閱録」所収有地右衛門家文書)は宮美作守元盛の次に「有地美作守高信事始備前守」を載せ「改本名、以在名称号有地ニ罷成候、始而属元就公」と記す。

 

「備後古城記」 は馬屋原監物を有地美作守元盛家臣とし、天正年中に有地(現福山市)より元盛が当城に移ったとするが、系図によ れば高信の時から有地氏を名乗ったようであり、系図の 末尾に「右私先祖有地美作守高信事、備後有地之城主也」 ともみえるので、当城に本拠を移したのは高信ではなかったかと思われる。

 

江戸時代にも旧態をよく残していたらしく、「備陽六郡志」は「神辺を初所々の古城、石垣を崩し、家普請・川 除なとに遣ひ侍れとも、当城は石塁全して馬出し堀なとの形残れり、いつの比にや戸手村祇園の社造営の節、別 当村の庄屋へ云けるは、此石塁の石を給れ、社の用に遣 ひ侍らんと約諾しける、自是以後、若石を穿ツものあれ は傷損するゆへ取者なし」と記す。

 

城郭の配置・規模に ついては「芦品郡志」に詳しい実測図が載る。

 

相方城

相方城は、芦田川下流の神辺平野南側の丘陵上に位置する山城で、山頂には 十数段の郭や石垣などの遺構を残しており、かつてのテレビ中継塔建設工事では本丸一帯から軒丸瓦なども採集されている。

 

城は、かつてこの地域一帯で力をもっていた新市宮氏の亀寿山城の対岸にあり、山頂の郭からは、南側の自領である有地はもちろん、北側の芦田川とそれ に沿う旧山陽道一帯、東は神辺城から西は八ツ尾城まで、東西約二〇㎞の範囲 を見渡すことができる。

 

城の歴史は、直接に関係した記録がないため不明な部分が多いが、 後半の地誌『備陽六郡志』『西備名区』などに若干の記述があり、城主とされる有地氏については『萩藩閥閱録』『相方村城主有地殿先祖覚』などによって、 また、菩提寺本泉寺の過去帳縁起、城の建物を移築したという戸手天王社に残る鬼瓦銘文などで、断片的ながら知ることができる。

 

それらによると、有地氏は宮氏から分かれたもので、天文年間(一五三二~ 五五)以前の宮元信の代に、兄弟の不和から弟の清元が宮氏を離れて有地に出 て有地氏を名のり、当時、尼子方であった宮氏に対抗し尼子氏に敵対していた毛利氏につき、天文三年の亀寿山城攻めには毛利方の武将として本家宮氏攻撃 に加わっている。

 

この戦いで本家宮氏は減ぶが、その跡は有地氏が継ぐことになる。

 

次の二代隆信・三代元盛は、ともに勇将として知られ、毛利魔下の武将 として周辺地域にしだいにその勢力を拡大していった。

 

相方城は、有地氏三代元盛によって永禄から天正の初めにかけて築城されたもので、有地氏にとっては自領の有地地域の狭い谷から、初めて神辺平野の旧道沿いに進出することとなり、勢力の飛躍的拡大、あるいは毛利氏麾下の武将としての確たる位置づけがなされたものと考えられる。

 

しかし、城は築城後まもなく、天正十六年(一五八八)、豊臣秀吉の「諸国山城御停止」の命により廃城となった。

 

その際、有地氏は宮内に移り、城の建物の一部は戸手天王社に移されたといわれている。

 

遺構は、城山の山頂部だけでなく斜面から山麓へと広い範囲にわたっている。

 

山頂部の遺構は東西に延びる尾根を東西三本の空堀で約五〇〇mの範囲に区切り、その内側に郭を並べたもので、内部は中央部を横切る空堀により、さらに 東・西の郭群に分かれる。

 

東側郭群は、中央部最高所の一郭を中心に、東西七つの郭と、それを結ぶ帯郭とからなる。

 

一・二郭は最高所に連なり、面積も三 〇〇~七〇〇㎡と広く、礎石建物が建っていたと考えられる郭で、当城郭の本丸的役割を果たしていたものと考えられる。

 

三郭は二郭の西に続く小郭で、四周に石垣を築き、南・東側は、それぞれ階 段で帯郭と二郭へつないでおり、桝形をなしている。

 

階段の両側には礎石があ り、門が建っていたらしい。

 

四郭は、一郭の東南方に隣接する郭で、南側には 帯と達続した高い石垣がめぐり、その上には土塀の痕跡が残ってい 一郭の東にある郭で、東側は三方を石垣で画している。

 

五郭は、一郭の東にある郭で、東側は三方を石垣で画している。

 

六・七郭は四・五郭の外側にあり、東側郭群の南をめぐる帯郭の延長上に当たるもので、勢溜のようである。

 

帯郭はこれら東側郭群の各郭を結び、さらに西側郭群ともつなぐもので、北側は、部分的に桝形状にした石垣で画するなど、通路と防禦施設を兼ねたものと考えられる。

 

西側郭群は、東側郭群の西を土橋のついた空堀で画した西側のもので、東西に並ぶ八~一〇郭の三つの郭からなる。

 

九郭が約四〇〇㎡と広いほかは面積的には小さく、造成も粗雑で、石垣もほとんどみられないなど、東側郭群とは様相を異にしている。

 

これら頂部郭群の南斜面には通路に沿って一一から一五郭の各小郭が並んでいる。

 

空堀は東・西で城域を画しているが、東側のものは比 高五~一〇mを急に削り落とし、底は大手道の延長上で堀底道としているのに 対し、西側のものは自然地形をそのまま利用している。

 

このほか北側斜面には幅一・五~三mの大手道、その西方上部には出丸もある。

 

さらに、東北山麓の鬼門と考えられる方向には、平時、居館にも利用されたと 考えられる菩提寺本泉寺がある。

 

したがって、ここまでを城郭の縄張りとすることができよう。

 

以上、総合すると、尾根上の遺構群は、形態的には直線状連 郭式の形をとっているといえるが、構造的には城門への順路が東側の大手道から、いったん南側斜面を大きく迂回して中央部に至る順路となっているので、 輪状連郭式に近いものである。

 

なお、本城郭は石垣を多用する点に特色があり、 現在、確認されたものだけでも延べ一二〇mに及んでいる。

 

石垣は、打ち込みハギで、角には部分的に切り石も使用しているが、算木積みといわれるほど整 ったものではなく、勾配の急な角では内部が膨らんだところもある。

 

これらの郭群からは、テレビ中継塔建設工事などによって瓦・土器などの遺 も採集されている。

 

瓦には二種の巴文軒丸瓦と均整唐草文の軒平下 平瓦があり、土器には明代とされる青磁碗、土師質土器皿、須恵質擂り鉢などがある。

 

また城の遺構とされる戸手天王社の建物には、門二棟と倉庫一棟がある。

 

門は、七尺幅の入口両側に四尺ずつの板塀を加えたもので、一棟はそれに 瓦葺きしただけの簡単なもので、他方は二階を付け足して櫓状にしている。

 

なお、相方城の周辺には、有地氏初期の所領が南側の谷であったことから、 この谷を中心に関係の大谷、鳥の奥の山城、居館的様相の濃い国竹城、谷の入 口を守る出城の宿茂塚、初期の菩提寺本安寺などの遺跡があり、相方城近辺には城下、集落の形成はみられない。

 

それは、領地からやや離れており、また芦田川に面しているため機能的・立地的に困難であったのか、あるいは城自体の領地支配を目的としたものではなかったためか、今後の考察が望まれる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

天文3年(1534):このころ宮元信の代に兄との不和で弟の清元が有地に出てある有地氏を名乗るとある。

 

天文3年(1534):惣領家の城である亀寿山城を毛利方として攻撃、落城。

 

永禄から天正のはじめ(1570年頃):有地氏三代元盛によって相方城を築城する。

 

天正16年(1588):豊臣秀吉の「諸国山城御停止」の命により廃城となる。

 

城主家系図

 

『毛利家文書225』弘治3年(1557)

 

『毛利家文書403』永禄4年(1561)

 

城主(一族)石高

有地美作(隆信)

1518.306石

【内訳】

1018.304石  出雲 秋鹿

500.002石  出雲 神門

 

有地九左衛門

401.019石

【内訳】

300.184石  備後 神怒

100.835石  備後 神石

 

有地少輔九郎 

171.111石   備後 恵蘇

 

有地久左衛門

77.901石   安芸 豊田

 

所感

●相方城の石垣は圧巻、戦国末期に造られたと思われるが、有地氏の勢力の大きさが伺いしれる。

 

●有地氏は宮惣領家との仲たがいから有地にきたという伝承があるが、福山市熊野町にいた一族が渡辺氏の押領で追い出されて有地に来住したともあり、不明なことが多い。

 

●有地氏で2000石以上の石高があり、宮氏の惣領家の代わりとして生き残った。

 

●本丸までは車でも行けれるので福山市に来たら是非とも寄ってみたい城。

関連URL

【広島県】亀寿山城【福山市新市町大字新市】

宮惣領家の城。

【広島県】桜山城【福山市新市町大字宮内】

宮氏縁の城、惣領家滅亡後は有地氏が管理したか。

 

参考URL

相方城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後相方城)

新市町相方城跡に就いて(築城者は誰なのか?)

大谷城と有地隆信(福山市芦田町・有地氏の謎)

有地隆信(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』

『備陽史探訪』第223号

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/03

 

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