城データ
城名:手城山城
別名:天神山城、手嶋の城
標高:20m
比高:20m
築城年:不明
城主:小早川氏一族・渡辺越中守兼・茂野五郎入道盛信・倉田左近五郎盛久、倉田孫次郎・藤井大郎左衛門
場所:広島県福山市東手城町2丁目
北緯:東経:34.480771/133.406859
攻城記
現在は天當神社となっている。
急な斜面。
忠魂碑(この奥にも曲輪がある)
進んでいく。
削平地。
進むと曲輪がある。
単郭。
西方向を臨む。
下を見ると急であることが分かる。
本丸方向に進む。
この辺りが一番の最高所。
現在は神社になっている。
急な斜面であるが、これは法面工事の影響か。
本殿。
本殿から西を見る。
当時は島であった。
手城山城全景。
当時の推定海岸線
イメージ
open-hinataより【手城山城】
余湖図【手城山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城跡の周辺は近世以降の干拓により陸地化したもので,中世には福山湾の東端に浮かぶ島に城が築かれたと思われる。
現在天当神社境内となっており,3段の郭が確認できる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
手城山城
城山城は、福山湾内南東部に位置し、かつては海中の小島であった。
城は岩盤からなる小低丘陵全体を利用したもので、頂部の一~四の郭と南北麓の平 坦面からなる。
現在、頂部には天当神社が建ち、公園となって、周辺も寛文年 間(一六六一~七三)に千拓されて陸地となっており、島の面影はほとんどなく、 船着場など、城郭に付属する遺構も明らかではない。
城の創建年代は明らかではないが、天文年間(一五三二~五五)、大内氏の神辺城攻撃に際しては、海上に発展していた小早川氏の一族が、このあたりに城を築いて沿海部との海上連絡の強化に努めたことが知られ、手城山城(手城島) についても、当時、沼隈半島で力を持っていた渡辺越中守兼が在陣しており、 この頃、小早川氏を継いだ隆景と共に神辺城攻撃に際し海上から圧力を加えて いたことが知られる。
その後については明らかでないが、江戸時代に記された『備後古城記』には、 天正年間(一五七三~九二)に茂野左近盛久・倉田孫次郎・藤井大郎左衛門などが在城していたことが記されている。
しかし、いずれにせよ、寛文年間(一六六一~七三)以降には福山藩主水野氏により周辺の干拓が始められ、すでに城 としての機能はなくなっていたことが知られる。
城郭の遺構は、平面長円形の独立丘陵(小島)頂部を盛土・削平して四段にしたもので、中央部最高所で一辺約一五mの方形をなす一郭、その東西にやや下って二・三郭、西南端に四郭がある。
一郭西北部には岩盤を削り出した土塁が みられ、二・三郭をつなぐ帯郭からは北西方向の谷に沿って大手道とも考えらる登山道が続いている。
この大手道を下った北西麓には、周辺の平地 や高く盛土した小平坦地があり、城郭の一部と考えられる。
なお、当城は海中に独立した小島であり、周辺はすべて海だが、東側約五〇 mには引野の丘陵が迫り、北方約一皿には当城と同様に島を利用した梶島山城がある。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
天文11年(1542):山名理興が裏切り尼子側につく。
天文13年(1544):大内氏が神辺城を攻めるが、長期戦となり、小早川氏に「五箇庄」に前線基地を築かせる、その前線基地として手城島城を築城する。
天文15年(1546)若しくは16年(1547):この頃大内、毛利VS山名理興(尼子方)で行われた神辺合戦で、竹原小早川軍は大門湾周辺の手城島城や明智山城を落とし、大門湾周辺の占拠に成功する。
※この時小早川氏が攻めているので天文13年から15年の間に山名氏に占拠されたか?
所感
●当初は福山湾に浮かぶ小島を城にした位だと思っていたが、この島が神辺合戦で重要な役割をしていたと思うと感慨深い。
●城域は3区画に分かれており、前線基地をしての役割を果たしていた。
●城主の茂野五郎入道盛信・倉田左近五郎盛久は親子らしいが、渡辺氏に攻められて討死や逃げたとあるので、山名方だったのか?
●城は周囲を断崖で守られたもので、小ぶりながら防御力は高かったのかもしれない。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/03