城データ

城名:亀寿山城

別名:亀地山城、小野宮城

標高:139m

比高:120m

築城年:鎌倉時代か

城主:宮氏

場所:広島県福山市新市町大字新市

北緯:東経:34.560393/133.266971

亀寿山城はここ

 

攻城記

攻城スタート。

地蔵がある。

対面の山には相方城(城主は宮氏庶流の有地氏)がある。

 

山頂部。

新市の街並み。

 

位置関係

 

open-hinataより【亀寿山城】

 

余湖図【亀寿山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城の遺構は丘陵全体に広がっているものの,分散した配置となっている。

 

山頂の二つのピークを主郭とし,この間には土橋を伴う堀切がある。

 

この二つのピークに伴う郭群が比較的まとまった遺構である他は,丘陵先端部に小郭群が分散している。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

亀寿山城跡 現新市町新市

亀寿山(亀地山・亀治山・亀一山とも記し、「かめじ」ともよぶ)にあり、小野宮城ともいう。

 

中世備後で大勢力を有した宮氏の本城。

 

「福山志料」によると、元弘年中(一三三一~三四)宮下野守兼信が居城したのを始まりとする。

 

兼信は宮左馬頭正信(太郎左衛門)の子で、有地右衛門家文書の系図(「閣閲録」所収)は正信について「下野判官従五位下此代迄公家ニ而候処、応長元年賜備後国守護職、下向彼 国号宮殿、弓馬達人也、元弘弐年死、六拾六歳」、兼信について「従此代武家改之也、亀地山之城主也、尊氏公之 時賜安堵之御判兼信,氏信、元弘より永和二至リ父子数 年関東帝都五畿西国所々合戦軍功抽群」と記す。

 

「太平記」には宮氏の名が散見し、貞治二年(一三六三) には南朝方と手を結んだ足利直冬と戦っている。

 

同書巻三八(諸国宮方蜂起事付越中軍事)は「備後へハ、富田判官秀 貞ガ子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲ヨリ直ニ国中へ打出タルニ、江田・広沢・三吉ノ一族馳著ケル間、無し程二千余騎ニ成ニケリ、富田其勢ヲ丼テ、宮下野入道ガ城ヲ 攻ントスル処ニ、石見国ヨリ足利左兵衛佐直冬、五百騎 アハセ 許ニテ富田ニ力ヲ合戦ト、備後ノ宮内へ被」出タリケル ガ、禅僧ヲ一人、宮下野入道ノ許へ使ニ立テ(下略)」と記す。

 

しかし南朝方へつくよう説得に行った禅僧は追返さ れ、宮氏の軍勢に直冬らは大敗した。

 

同書は続けて「直冬朝臣、宮入道ト合戦ヲスル事其数ヲ不知、然共、直冬 一度モ未打勝給ヒタル事ナケレバ、無云甲斐ト思フ者 ヤシタリケン、落書ノ哥ヲ札ニ書テ、道/岐ニゾ立タリ ケル、直冬ハイカナル神ノ罰ニテカ宮ニハサノミ怖テ逃 ラン」と記す。

 

その後も当城をめぐる戦いは度々あったが、天文三年 (一五三四)には備後制圧をもくろむ毛利元就の宮下野入道 直信(重信とも)・嫡子若狭守元盛への攻撃が行われた。

 

前出系図の直信の項に「大内家幕下也、天文三年七月備後国主宮下野入道か居城江元就公弐千之御人数を以御取懸被成候処、入道急病にて死、依之城中弱而嫡子若狭守降 参仕候」とあり、戦いの様子は「陰徳太平記」巻九(備後国宮城合戦事)に詳しい。

 

城跡の形態・規模は「芦品郡志」 に実測図が載る。

 

この亀寿山城下には古市・新市・北市などの市場が中世に成立しており、融治郡の経済の中心地でもあったと 思われる。

 

『広島県の地名』より引用。

 

亀寿山城

亀寿山城は、神辺平野西部の新市にある。

 

相方城の対岸に位置し、南の芦田川と東の神谷川に挾まれた亀寿山頂(標高一三九)を利用した山城で、備後地方生え抜きの土豪宮氏の総領家の居城として長く使用された。

 

築城年代については明らかで ないが、備後一 宮吉備津神社との関係、あるいは貞治元年(正 平十七、一三六 二)の亀寿山城 下の戦などの記 録から考えると、 鎌倉期にすでに 築城されていたものと思われる。

 

宮下野守直信の代の天文三年 (一五三四)に毛利元就によって 攻められて落城し、新市宮氏総領家は滅んだ。

 

しかし城自体は、それ以後も毛利氏あるいは有地氏によって利用されていたものと思われる。

 

城郭は、独立丘陵状の自然地形を利用したもので、頂部には空堀で隔てて東 西に郭が造られ、本郭の東側にも郭を続けて配置している。

 

現在、山頂部付近 が霊場として使用されているため、城郭としての顕著な遺構をみることはできない。

 

ただし、南に延びた三本の尾根の先端部には、いずれも削平した跡があ り、それらを利用したことも考えられる。

 

本城跡からはロクロ整形で底部系切りの土師質土器の皿、宋銭を中心とした古銭なども採集されている。

 

なお、周辺には北方眼下に桜山氏の桜山城、宮氏と関係の深い備後一宮吉備津神社、さらに有木氏の鳶尾城などがあり、また、南方眼下には旧山陽道と芦田川を挾んで対岸に有地氏の相方城がある。

 

亀寿山城 (鎌倉時代末期~天文3年(1534))

亀寿はもと亀地であり、近世に入って亀寿と記した。

 

古山陽道は御領より戸手を経てこの山麓を通り、市、三原に通じた。また神谷川沿いに北上する街道もあり、中世まではこの地は備後東部の交通の要所であった。

 

街道に近く急峻な地は城を築くに適し、幾世代にもわたって興亡と盛衰の歴史を残した。「元弘の変」(1331)では、宮内桜山城の支城として南方を防ぐ任務を果たしたほか、その後も備後東部の有力な城として攻防の中心にあった。

 

天文3年(1534)9月尼子勢の一翼を担って毛利方と対し、城をあとに広谷方面で戦い(陰徳太平記・広谷合戦)落城する。

 

山頂一帯に砦が築かれその規模は近隣の山城を圧倒していたものと推測される。山頂部近くの現石鎚神社は二の丸跡に位置し南に本丸、西に三の丸と連なっていた。

 

現地看板より

 

城の歴史

鎌倉時代末期:この頃には築城されていたと思われる。

 

元弘年中(1332~34):「福山志料」によるとこの頃宮下野守兼信が居城したのを始まりとする。

 

貞治2年(1363):この頃、南朝方と手を結んだ足利直冬と戦う。

 

天文3年(1534):毛利元就によって 攻められて落城、新市の宮氏総領家は滅ぶ。

※おそらくそれ以降は庶流の有地氏が管理した可能性もある。

 

 

城主家系図

 

亀寿山宮氏は戦に敗れた為、資料の散逸もあり正確な家系は不明ただし、毛利家文書307に天文17年に宮次郎左衛門尉が討死していることが記載されている。

ただしこの次郎左衛門尉は有地氏の可能性もある。

有地景信も次郎左衛門尉を名乗っていたらしい。

『毛利家文書』307

 

所感

●宮氏惣領家として大きな力を有していたが最終的に尼子についた為、毛利に攻められて滅亡する。

 

●城の遺構は特段見るべきものは無かったが城域は広く、注意深く見ると見どころもあるのかもしれない。

 

●相対する山には相方城もあり、庶流の有地氏の城であった。

 

関連URL

【広島県】桜山城【福山市新市町大字宮内】

同じ一族の桜山氏の城。

【広島県】相方城【福山市新市町大字相方】

庶流の有地氏の城。

 

参考URL

備後・亀寿山城 幻の名族となった宮一族の滅亡

武家家伝(宮氏)

宮氏(ウッキペディア)

宮兼信(ウッキペディア)

宮氏信(ウッキペディア)

太平記巻三十八

open-hinata

 

参考文献

『備後の山城と戦国武士』田口義之著

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/03

 

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