城データ
城名:千光寺山城
別名:権現山城
標高:106m
比高:100m
築城年:永禄年間(1558~70)に杉原元清によって築かれた。
城主:杉原氏
場所:広島県尾道市東土堂町(千光寺公園)
北緯:東経:34.410380/133.196293
攻城記
対岸には向島が見える。
東方面。
鼓岩というらしい。
とりあえず叩いてみる。
しっかりと矢穴の跡がある。
この千光寺も城域か。
更に上を目指して登るとここにも矢穴があった。
open-hinataより【千光寺山城】
後世の改変で現状を留めているところは少ない。
余湖図【千光寺山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【千光寺山城】
城の概要
千光寺山城は尾道水道を見下ろす千光寺山頂部にある山城で、天正年間木梨杉原氏七代元恒による築城後、 数年で豊臣秀吉による山城禁止令で廃城になった。
位置としては、尾道水道に迫る千光寺山山頂(標高 一〇六m)にあって、向島・尾道水道はもとより、広く瀬戸内海を一望できる要害で、交通の要所であり、経済都市でもある尾道を抑える要地である。
当城の歴史は、天正十二年(一五八四)、木梨杉原氏七代元恒が、木梨鷲尾山城から尾道港の取締りのため、この地に城を築いたのが最初とされているが、 『善勝寺文書』あるいは福善寺に残る過去帳には、元恒の父元清(隆盛)が千光寺山城主で、同四年に尾道で没した由が記されており、それ以前の永禄年間から築城が始まっていたとも考えられる。
しかし、元恒の子広盛の代の同十九年には秀吉による山城停止令が出され、広盛は再び木梨鷲尾山城(釈迦ケ峰城)山麓に居館を構えて移ったとされており、その後、廃城となった。
したがって城の存在期間は長くみてもわずか三十年ときわめて短く、城としての整備も充分ではなかったもののようである。
当城の遺構は、千光寺山山頂の千畳敷とも呼ばれる郭を中心に広がっていたものと考えられるが、現在、公園となり、展望台や演芸館などの多数の建物が 建ち、造成も行なわれているため、往時の様子はかならずしも明らかでない。
ただ北から東へ続く頂部尾根上は城として利用したものらしく、尾根上には階段 状に六段の郭が並び、それに挾まれた谷も郭として利用したらしい。
なお、尾 根上北端には八畳岩と呼ばれる大岩があり、ここに天守が建っていたともいわ れている。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
天正4年(1576):城主である杉原元清が尾道で没とあることからこれ以前に城があったと思われる。
天正12年(1584):杉原元恒が築城したともある。
天正19年(1591):秀吉による山城停止令が出され、杉原広盛は千光寺山城から撤退する。
城主家系図
城主(一族)石高
木梨喜左衛門(元次)
403.445石
【内訳】
252.710石 備後 神石
150.735石 備後 芦名
木梨平左衛門(景吉)
265.581石
【内訳】
020.071石 備後 沼隈
245.510石 備後 御調
木梨宮内(弘盛)
200.861石
所感
●現在は城の遺構は確認できないが石に矢穴があり当時この場所で城が造られていたことは分かる。
●比高も100mとそこまで高くないが、逆に瀬戸内海の往来も確認できる高立地。
●対岸の向島は村上氏の勢力範囲であった。
関連URL
対岸の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/01