奴可部亀山城(仮称)は公的資料にも古文書関連資料にも出てきません。
しかし、ここに城があった可能性があります。
縄張り図が書ける方、古いお墓に興味のある方は是非調査して頂ければと思います。
城データ
城名:奴可部亀山城(仮称)
別名:無し
標高:590m
比高:30m
築城年:不明
城主:奴可氏や小奴可宮氏と思われる
場所:広島県庄原市東城町小奴可大字奴可部
北緯:東経:34.997122/133.21529
攻城記
山頂に進んでいく。
削平地あり。
現在は墓所になっている。
江戸時代は神社になっていた。
削平地が多くある。
比高はそこそこある。
山頂(本丸)
祠の後ろは土塁になっている。
明らかに土塁。
山頂は綺麗な削平地になっている。。
土塁から見下ろす。
堀のような違うような。
上から見ると掘っているように見える。
古墓(奴可氏、小奴可氏か)
かなり多くの古墓があり、五輪塔と宝篋印塔が乱雑に積み上がっている。
降りたところにも宝篋印塔が4基ある。
位置関係
『芸藩通志』
この地蔵のある場所が推定地だと考えられる。
この城が亀山城ではないか?
現在小奴可にある亀山城よりもこちらの方が亀山城として機能していた可能性も否定できない。
亀山という地名
●現在の亀山城は江戸時代にも亀山城と呼ばれていたが、この奴可部にある山も「亀山」という地名である。
江戸時代の地図には確かに亀山古城跡と記載ある。
しかし、大字奴可部にも亀山と記載されている地名がある。
室町時代以前の五輪塔や宝篋印塔が点在
これらの墓は室町時代まで遡り、詳細な調査を行えば鎌倉時代末期のものもある可能性も否定できない。
削平地や土塁など城としての機能も有している
明らかに城の痕跡が見て取れる。
当時の地形
今とは全く違う地形だと考えられる、古老の話では現在の小奴可駅周辺は井戸を掘っても砂ばかりであったことや、江戸時代のタタラ製鉄で大きく地形が変わったこともあげられる。
※実際現在の亀山城の裏の畝状竪堀状の地形はタタラ製鉄での土木跡ともいわれる。
現在の地形。
平安時代末期から戦国時代。
当時の川は治水工事もされていなかったため、氾濫原が広がっていたと考えられる。
また、ひとたび洪水になると、上記の範囲位は水没すると思われる。
そうなってくると、現在の亀山城も奴可部亀山城もぎりぎり水没から免れる場所に位置していることとなる。
上記のことから、この奴可部亀山城(仮称)の詳細な調査を行うと新しい発見があると思われる。
城の歴史
詳細が不明なので城の歴史も不明であるが、おそらく奴可氏や小奴可氏の城として機能していたと思われる。
城主家系図
小奴可氏の城だと思われる。
城主(一族)石高
小奴可氏の所領だと仮定。
最盛期には小奴可村及び周辺にも勢力はあったと思われる。
そうなると1000~2000石位の規模があったのではないかと思われる。
所感
●伝承もなく、地元の方も知らない幻の城。
●麓には「小寺」という屋号の家もあり、城の麓に寺があったらしい。
●様々な状況証拠からここにも城があったことは否定できないと思われる。
どなたか、縄張り図を作成して頂けませんでしょうか!!!
城の調査、古墓の調査などから新しい小奴可氏が見えてくると思います!!!
関連URL
本家本元の亀山城。
詳細な亀山城や小奴可氏の記載あり。
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/30