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城データ

城名:甲山城

別名:冑山城、嶋山城、兜山城

標高:380m

比高:100m

築城年:元享年間(1321〜24)頃に山内通資によって築かれたと云われる。

城主:山内氏

場所:広島県庄原市本郷町

北緯:東経:34.853589/132.956025

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

甲山城全景。

甲山城

山内氏は相模国山内庄(現鎌倉市)を本拠地として いたが、通資のとき、地毘庄(高野 、比和、庄原の一部)の地頭に任じられた。

 

正和五年(一三一六年) 、現在の高野町に 部(しとみ)山城を築いたが、戦略上から甲山城を築き文和四年(三五五年) に移住した。

 

成長して備後屈指の戦国大名になり室町時代には、毛利氏に並ぶ勢力になった。

 

毛利氏の支配下 になった天正十九 年(一五九一年) 二十世元資が広島城下に移るまで、 甲山城を居城とした。

 

甲山城の矢竹。

城域に進んでいく。

三の丸。

比高があるので眺望がある。

井戸跡。

二の丸。

土塁跡。

一の丸

石積みの跡もある。

櫓台跡から。

周辺部。

円通寺【山内氏菩提寺】

 

 

 

余湖図【甲山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【甲山城】

 

 

城の概要

甲山全山が城郭化されている。1郭の中央には櫓台状の高まりがある。

 

2郭の北東隅にも櫓台状の高まりがあり,現在甲山南麓にある良神社(別名「詰ノ丸八幡」)がかつてここにあったという。

 

3郭は2郭の2m南下にあり,北西端に土塁がある。2郭・3郭のまわりには土塁の痕跡が見られる。

 

4郭は2郭の北東下にあり,北東隅に櫓台状の高まりがある。その下には二重の堀切と土塁を配す。

 

これらの郭群の外側にも尾根上に郭群があり,北側に広がるものは各郭の規模が大きい。

 

東と南に広がる郭群は山裾まで延びるが,南側のものは加工度が低い。

 

西側の郭群には菩提寺の円通寺があり,本堂は重要文化財に指定されている。

 

山内氏の本拠城である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

広島県史跡
甲山城跡(こうやまじょうあと)
指定年月日 昭和46年12月23日
所在地 庄原市本郷町字古城山91番10外

現状
立地:独立丘陵  標高:384m 比高:120m

甲山全山が城郭化されているが、広島県史跡の範囲は第1郭から第3郭までである。

 

第1郭の中央部には櫓台状の高まりがある。

 

第2郭の北東隅にも櫓台状の高まりがあり、現在甲山南麓にある艮(うしとら)神社(別名「詰ノ丸八幡」がかってここにあったという。

 

第3郭は第2郭の2m南下にあり、北西に土塁がある。その下には、二重の堀切と土塁を配す。

 

これら郭群の外側にも尾根上に郭群があり、北側に広がるものは各郭の規模が大きい。

 

東と南に拡がる郭群は山裾まで伸びるが、南側のものは加工度が低い。

 

西側の郭群には菩提寺の円通寺があり、本堂は重要文化財に指定されている。

 

看板より

 

 

甲山城

甲山城は、中世における備後北部の有力な国人衆である山内氏が本拠を置い ていたところである。

 

 

この城の南麓一帯は、高山門田と呼ばれる山内氏の直営地である水田地帯が 広がっており、城の北方には比高一〇〇m前後の丘陵が連なり、西流する西城 川が外濠の役割を果たしていた。

 

また、戦国時代には、この川に沿って三角城・ 郷原城・鈴神城・西木山砦・小倉山城・横吹山城などを約二㎞ごとに築いて、 北方の尼子氏の侵入に対して守りを固くしていた。

 

山内氏の姓は藤原氏で、相模国鎌倉郡山内を本貫地として山内首藤氏ともいい、俊通の妻が源頼朝の乳母であった関係から、頼朝の信頼を受けた重臣であった。

 

俊通の子経俊は幕府から地毗荘(庄原市北半・比婆郡比和町・同郡高野 町一帯)の地頭職を与えられ、時通の代には地毗荘の周辺の河北郷・伊与東村・ 江木門田・信敷荘(庄原市・比婆郡比和町一帯)を与えられている。

 

所領は、本貫地の相模のほか摂津・信濃などにもあったが地毗荘は面積も大きく、生産力も高くて安定し、しかも要害の地であったことから通資の代になって本貫地から備後地毗荘に本拠を移した。

 

通資は、正和五年(一三一六)に、まず北部の高野山新市の蔀山に城を築いたが、元亨年間に弟の通俊にこれを譲って、あらたに本郷に甲山城を築いたとい われている。

 

通資が蔀山城から甲山城に本拠を移した理由は、高野山は古くから鉄の生産 地であり、要害の地でもあったが、備後国の最奥地で雪も多く、交通が不便であり、これに対して地毗荘南部は生産力が大きく、交通も便利で、河北・滑・ 田原・黒杭氏などの庶家が入っており、これらを統轄し、荘内経営の発展を進めるためであった。

 

甲山城の山内氏は通資を初代として、通時・通継・通忠・通・時通・泰通・ 豊通・隆通と代を重ねており、室町時代には幕府に従い、応仁の乱には備後国 の守護山名氏に属して各地に戦って所領を守っていたが、地毗荘と備後国内に若干の所領を保持したが、他の所領はしだいに失っていった。

 

また、地毗荘周辺では、三次市島敷町の比叡尾山城を本拠とする三吉氏、双三郡吉舎 山城を本拠とする和智氏などと所領の争奪をくり返していた。

 

直通の代になると、備後国守護山名氏の勢力が衰え、代わって安芸・備後の 南部に大内氏が入ってきたことにより、一時は大内氏に属したが、北方の出雲富田城に拠る尼子経久が台頭して近隣を攻略したため、結局、直通は尼子氏に従うことになった。

 

天文九年(一五四〇)、尼子晴久は、大内氏に属して当時台頭しつつあった吉田都山城の毛利元就を討つため、出雲・石見・備後などの尼子方に兵を出させた。

 

このため、直通は尼子方として、一族の多賀山(高野山)氏とともに参陣した。

 

しかし、この郡山合戦 は尼子方の敗退で終わった。

 

天文十一年(一五四二)、 大内義隆と毛利元就は、富田城の尼子氏を攻略することになった。

 

このため、山内氏は他の国人衆と同様に去就をはかりかねていたが、 結局、大内方として参陣した。

 

ところが、山内氏は他の石見勢などとともに富田城攻撃中に尼子方に転じたため、大内・毛利方は総崩れとなった。

 

天文二十年、陶晴賢が大内義隆を殺害したため、毛利元就は防長攻略を謀るが、 その留守をねらう尼子晴久の侵攻を阻止するため、山 内氏と盟約することになった。

 

ところが、山内氏の一族である蔀山城の多賀山(高野山)氏は、尼子方に走 ったので、毛利方は蔀山城を攻めて、これを陥落させた。

 

こうして山内氏は、 毛利元就に従うことになったので、尼子晴久は同二十二年に甲山城を攻撃したが、落城には至らなかった。

 

甲山城は、独立したいわゆる男山の山頂を本丸として、四方に郭を配置しており、その城名は、南麓一帯が高山門田の名で知られるように、高山と呼ばれ ていたことに由来する。

 

のちにその山容から兜山城とか、嶋山城とも呼ばれたようである。

 

この城の本丸は、三〇m×一二mの規模で、その中央部に高さ約二mの櫓跡と思われる段が残っている。

 

また西南端には、二の丸に通じる道を設けている。

 

二の丸は、本丸の西側と北側に延びた大きな郭で、外側には土塁も残り、本 丸の東北方向にあたるところに良神社の跡かと思われる基壇らしいものが認められる。

 

三の丸は、本丸の南に二の丸から一段下って設けられ、西側に土塁がある。

 

二の丸から三の丸へは、二の丸の東側から南に延びる帯郭が連絡している。

 

二の丸の北側には、一二m下って東方から北方に広がる郭があり、下方には堀切と土塁が認められる。

 

本丸から東北方向に延びる尾根上には、八五m×三〇mの大規模な郭があり、 その先端に三本の堀切を設け、郭の東側をめぐる馬場跡と思われる道に通じて いる。

 

三の丸の西方約一〇m下ったところに四七m×二〇mの郭があり、途中に二 つの小郭を設けている。

 

また、この郭の西方にも小郭群が認められる。 西方の郭の南側には、七m下って土塁を設けた五〇皿×二二mの郭がある。

 

その東側の谷には湧水地があり、西側には腰郭がある。また、南側には二段の小郭を設け、その先は尾根道が下りている。

 

この山城の大手道に沿った西南中腹には、初代通資が氏寺として創建し、天文年間(一五三二~五五)に直通が中興した慈高山円通寺がある。

 

また、山麓一 帯には、寺院や武家屋敷、市などを設けていたと思われ、山内氏の墓地、滑良氏の屋敷跡などがあり、畔の市・多穂の市などの地名が残っている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

元亨年間(1321〜24)に蔀山城から山内通資が甲山城に居城を移す。

 

16世紀前半:山内直通が当主の頃に尼子氏に従う。

 

天文元年(1532):尼子経久の三男である塩冶興久が経久に叛き破れる、山内直通の妹婿が塩冶興久だったこともあり、甲山城に落ち延びる。

 

天文3年(1534):尼子経久が塩冶興久の引き渡しを求めるが拒否する。塩冶興久が自刃して尼子氏に渡して和睦する。

 

天文4年(1535):山内氏と毛利氏の間で講和が成立して大内側につく。

 

天文5年(1536):尼子氏が甲山城に侵攻して攻略する、山内直通が隠居し多賀山氏に嫁いで生んだ多賀山隆通を山内の当主にすることで事を治めた、再び尼子氏につく。

 

天文9年(1540):尼子方として吉田郡山城攻め参陣する。

 

天文10年(1541):尼子軍が敗退し、尼子から大内氏に鞍替えする。

 

天文11年(1542):大内氏として月山富田城攻めに参陣するが、途中で尼子氏に寝返る。

※このため、大内軍は総崩れとなり潰走する。

 

天文20年(1551):大寧寺の変にて陶晴賢が大内義隆を滅ぼす。毛利元就は陶氏に協力して防長攻略を実施。

その間尼子の侵入を防ぐために、山内氏と盟約する。

※大内側(陶側)につく。

 

しかし、一族の多賀山氏が尼子に寝返った為、毛利氏がこれを討つ。

 

 

天文22年(1553):尼子晴久が甲山城を攻めるが落城せず。

この頃毛利氏に帰順する。

 

以下ウッキペディアから

天文22年(1553年):元就の娘婿・宍戸隆家の母が、隆通の祖父・直通の娘であった縁から、宍戸隆家と口羽通良から毛利氏へ帰順するよう説得を受けた隆通は、同年12月3日に9ヶ条の条件を宍戸隆家に提示した。元就と隆元は三谿郡和智村と涌喜氏に関する2ヶ条を除く7ヶ条を承認して起請文を隆通に送った。

 

この返答を隆通も受け入れ、以後山内氏は毛利氏の麾下に属することとなり、他の備後の諸将とは別格の待遇を受けて重用されている。

 

『萩藩閥閲録』巻13ノ1の3

 

①宮氏と東氏の旧領で、隆通が知行している備後国奴可郡小奴可・久代の地は全て隆通の所領とすること。ただし、備中国哲多郡八鳥山については求めない。

 

②隆通の実父である多賀山通続が毛利氏に服属した際に通続を疎略に扱わない、という旨の起請文を出すこと。

 

③備後国永江の地は江田隆連に還付せず、以後も隆通の所領とすること。

 

④備後国三谿郡和智村は近年の通り、山内氏と三吉氏の分領とすること。

 

⑤備後国三上郡信敷の内の一部地方はかつては複数の国人で少しずつ分領していたが、以後は現状を維持し、誰がどのような提言をしようとも耳を貸さないこと。

 

⑥高光氏は、隆通と同様に毛利氏へ従う意思があるため、高光氏の所領を安堵すること。

 

⑦涌喜氏のこと。 ⑧毛利氏領内から1ヶ所を隆通に分与すること。

 

⑨以上の条件を認めるという旨の誓書をこの箇条書の奥に書き、元就、毛利隆元、宍戸隆家が連署と加判をすること。

 

 

弘治元年(1555):厳島合戦後に毛利氏の防長経略において、尼子氏の侵攻を食い止めるべき、甲山城の周りを固める。

 

 

永禄5年(1562):このころ毛利元就の出雲侵攻で隆通は先鋒を務め、7月、尼子氏領である出雲国牛尾の半分である700貫、賀茂500貫、井能300貫、佐世700貫を与えること約束され、同年10月には出雲国道前300貫も加えられた。

 

『萩藩閥閲録』巻13ノ1の7、8

 

元亀2年(1571):6月14日に毛利元就が死去した翌年の元亀3年(1572)、毛利輝元から忠誠心を疑われたのか、隆通は熊谷信直を仲介として、輝元へ変わらず忠誠を尽くすことを誓い、その証として輝元に太刀一腰と金覆輪の鎧、輝元の側近である児玉元良に銭200疋を贈っている。

 

これを受けて輝元は、同年7月25日に山内隆通・元通父子に対して、今後は何人が告げ口をしようとも山内父子の忠誠心を疑う事は無いと起請文で誓っている。

 

『山内家文書245』

 

天正12年(1584):3月13日、輝元は隆通に対し、三吉氏や久代氏、三沢氏と同様に毛利氏に人質を差し出す事を要求。

『山内家文書287』

 

さらに同年4月18日には熊谷信直に対し、隆通が人質を出すよう宍戸隆家への助言を依頼した。

『山内家文書292』

 

これを受けて熊谷信直は同年4月20日に隆通へ書状を送り、輝元の人質要求に対して隆通が分別を持って返事するよう求め、同日に隆通は広通を人質として宍戸隆家に差し出すので輝元への取り成しをするよう信直に依頼した。

『山内家文書293』

 

同年5月23日に広通は人質として宍戸氏の五龍城へ行くこととなったが、隆通は広通が五龍城へ行くのは病の養生の為と称するよう熊谷信直に述べている。

 

天正13年(1585):隆通は輝元らに従って四国征伐に従軍する。

 

天正14年(1586):2月12日、輝元の命により山内氏の知行高を注進した。

 

この時の山内氏の所領は備後、安芸、出雲に渡っており、山内家重臣である滑通恒、宇野通治、河面通友、涌喜通良らの所領を含めて合計6748貫であった。

 

『山内家文書304』

 

城主家系図

 

 

城主(一族)石高

山内少輔四郎(広通)

6746.980石

【内訳】

3651.940石  備後 恵蘇

3095.040石    備後 三上

 

所感

●備後屈指の国衆として大勢力であり、毛利家と互角の力を有していたが、尼子の侵攻等で勢力拡大しにくかったことが戦国大名化できなかった要因か。

 

●鎌倉時代からこの地におり、一族庶流も多く、各地に配していた。

 

●城の規模も大きく、尼子の侵攻時も籠城していたものと考えられる。

 

関連URL

【広島県】蔀山城【庄原市高野町新市】

 

参考URL

山城攻城記(備後甲山城)

甲山城 -備後の城ー

西国の城(甲山城)

古城盛衰記(甲山城)

備後 甲山城跡、円通寺(よしだっちの城跡探訪記)

備後山内氏(ウッキペディア)

武家家伝(山内氏)

山内直通(ウッキペディア)

山内隆通(ウッキペディア)

山内広通(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/04/02

 

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