城データ
城名:南山城
別名:無し
標高:240m
比高:50m
築城年:1527年の細沢山の戦いで尼子経久率いる尼子方が使用したらしい
城主:尼子経久
場所:広島県三次市和知町
北緯:東経:34.798579/132.915694
攻城記
南山美術館を目指しておきその裏山が城跡となる。
土塁が特徴的な城。
ここも曲輪の跡だと思われる。
open-hinataより【南山城】
余湖図【南山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
横堀,土塁によって囲まれたスペースが3か所確認できる。
横堀,土塁は数ヵ所で直角に折れ曲がっており,虎口も確認できる。
なお,内部は平坦に普請した痕跡は認められず,緩やかな自然地形のままである。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
大永7年(1527年)の細沢山の戦いで尼子経久率いる尼子方が使用した陣城らしい。
和智細沢山の合戦
尼子経久の南下
大永三年(一五一三)六月、尼子経久は自ら大軍を率いて中国山地を南下して西条(東広島市)の鏡山 城を攻めた。
鏡山城は大内氏が安芸国支配の拠点としていた城である。
この戦いには三吉氏も尼子方に付いて参戦してい るが、毛利元就も鏡山城攻めの先陣をつとめ尼子方の大勝利に終わった。
。の戦いによって備後北部はもとより、安芸国の国人衆の多くは尼子方に味方するようになり、元就も、、この年の毛利家の家督相続では、事前に尼子氏の了承を取り付 けなければならない有様であった。
山陰の勢力が南下して瀬戸内海沿岸地方まで支配下においたのは、歴史上経久が初め てであり、また最後でもあった。
なお、『大内義隆記』には「尼子伊予守(経久、安芸鏡山を切り取って引く足に、備後 国和知又九郎豊里が城へ押し寄せて」と、和智氏の本拠である吉舎献天直城を攻めたとしているが、これは誤りで、後で 述べる大永ヒ年細沢山の合戦と混同している。
翌四年、大内義興・義隆親子は重臣的興房ら二万余の兵を率いて岩国から安芸国へ入って本格的な尼子氏への反撃を開始し、友田(厳島神主、廿日市桜尾城主・武田連合軍を敗走させた。毛利元就も同五年尼子方を離れて大内方に付き、これから後の歴史に大きな影響を与えた。
尼子氏の毛利家跡継ぎ問題に対する内部干渉をきらったためである。
さらにその 年には備後国守護の山名誠豊が反尼子の旗を上げ、山名誠豊に従って備北最大の勢力を誇っていた山内氏(庄原市甲山城主) とその一族多賀山氏(比婆郡高野町山城主)も反尼子氏の立場をはっきりさせた。
細沢山合戦
右の状況をみた尼子経久は大永七年(一五二七)夏再び自ら大軍を率いて中国山地を南下し、三次盆地 和智郷で北上してきた大内・毛利軍と戦った。これを「和智細沢山合戦」という。
戦いは七月から一一月まで断続的に続 き、戦国時代備後国で展開された両軍の最初にしてしかも最大の激戦の一つであったとみられる。
山内氏と多賀山氏が大内方についていたので、尼子の軍勢は赤名峠を回って三次に入り、さらに北上して三次郡の四拾貫村、三谷郡の
和知・向江田村にかけて布陣し、山内氏に圧力をかけた。 この戦いに関して大内・毛利側に多く史料やそれに軍記物などが残っているが、
逆に尼子側の合戦に関する史料は残っていない。
このことは合戦の結果が大内・毛利連合軍の勝利に終わったことを物語っているといえよう。
尼子経久は和知の「国広山城」へ入り、四拾貫村に「ハチヶ檀城」という陣城を築き(同城については、)江戸時代の藩通志』に「古戦場、八千壇」とある)、さらに菅田に南山城を築いて布陣した。
北の山内氏の本拠甲山城(庄原市山内町)圧力をかけると共に、南から山内氏救援にやってくる大内・毛利軍に備えるためである。
戦いは、七月一二日毛利方の坪井彦次郎が、尼子方の蓑田大蔵丞を討ち取っている。(『閥閱録』巻四一)ことから、この 日にはすでに始まっていたことが分かる。
七月下旬大内方の陶興房(晴賢の父)や毛利勢が和知へ入るのを待って、八月 九日大内・毛利軍は「和智細沢山」で尼子軍と本格的な激戦を展開した。
その戦いの激しさは、このとき出された軍忠状や感状の多さと、その内容からも推定出来、尼子方は米原山城守・牛尾信濃守らを失い、毛利方の記録には「随分之衆数百人討取申候」(『毛利家文書』一三九)とある。 両軍が激戦を交えた「細沢山」は、現在のどの地に比定されるのであろうか。
江戸時代の向江田村絵図(『芸藩通志』)国広山城の南麓に「細蔵池」という池があり、同所には「細蔵」一の小字地名が現在も残っているが、細蔵は細沢が訛ったものであろう。
八月九日の激戦はここで展開された。
(図3-26)は細蔵を中心とした周辺の山城・陣城遺跡を示したもの であるが、この図で地元で「南山城」と呼ぶ城が、位置関係からみて尼子軍が臨時に築城して陣城として利用したもので、 合戦場の名を地名から細沢山と呼んだのであろう。
戦いはこの細沢山(南山城)に陣をはる尼子勢と、それを攻める毛利・大内連合軍との間で展開された。
他方、大内・毛利軍はどこを本陣としたのであろうか。
それは現在の和田小学校東の瀬戸山城(同城の一部分を構成している山城に茶臼山城がある)とみられる。
この山は江戸時代には緊急連絡用の」(のろし山)に指定されていた山でもある。
さらにその瀬戸山城の西に狭い谷を隔てた所に、地元で「陣山」とよぶ陣城の遺構を持つ山がある。
瀬戸山城の細張りのように、山頂部の周辺に妙岸とよばれる高さ三〜四㍍の段差を設け、さらに北側斜面には幅五〜一〇㍍、長さ一 〇〜二〇㍍に段階状に数段削っていて明らかに陣城遺構と確認でき、これも大内・毛利側が陣城とした城とみられる。
大内・毛利軍の和智郷への進出経路を考えると、吉田から江の川沿いに、尼子方に付いていた三吉氏のいる三次経由は考えられないので、毛利領であった板木(三和町)から美波羅川沿いに北上して塩町を経て向江田の瀬戸山城・陣山へはいり、戦いに臨んだものとみられる。
戦いは秋になっても続き、九月には吉舎の和智豊広が、山内氏の勧めを受け入れて九月に大内方へ転じている『山内藤家文書』二〇〇)し、世羅郡の国衆湯浅氏も大内方へ付いている(閣閱録』巻一〇四)。戦いは長期戦の様相を示していたようで、一一月には出雲国横田(仁多郡横田町)の岩屋寺の僧快円が「和知ノ八千タン」に尼子経久を訪問している(「岩屋寺快円日記」『大社町史史料編こが、これは四拾貫のハチヶ壇城であることは間違いなく、一一月になおも経久が「ハチヶ檀城」に在陣していたことが知られる。
また一一月になると「至三吉郷勢、地下悉放火之時」「多々良氏家法」「多賀社文庫」 『尼子史料集』と戦火は三次へ飛火しており、三吉氏の本拠である比叡尾山の城下まで戦火にさらされたことが想像される。
約五か月に及ぶ和智郷を中心にした戦いにより、地元の農民たちは両軍の略奪暴行に悩まされ、不安とあきらめの中に日々を送ったことであろう。
和智細沢山合戦で、三吉・江田両氏の動静ははっきりしない。
しかし三吉氏の場合、本拠である比叡尾山城のすぐ近くに尼子氏がハチヶ檀城を築いていることからみても、・三吉氏が尼子側に付いていたことは間違いないであろう。
江田氏については「陶到江田対陣候」(『閥閱録』巻三七-一)という文面や大内・毛利勢が江田領を北進して和智郷へ到ったことを推定すれば、大内側に付いていた可能性が強い。
大永七年の尼子経久の三次盆地への進出、ならびに長期の駐留は、大内方の山内氏に圧力をかけることによって安芸国 に入った大内方を牽制し、結果的に武田氏らの安芸国の尼子勢を援助することにあったとみられる。
この南下の目的は十 分に達成出来ないまま、経久は出雲国へ引き上げたが、しかし、経久の備後国への工作はその後も執拗に続けられ、享禄元年(一五二八)から翌年にかけて多賀山氏を攻めて攻略し、さらに天文五年(一五三六)には山内氏も傘下に入れている。
尼子方を離れ大内方に付いた吉舎南天山城主和智豊広であるが、大永七年九月、、その跡を養子の豊郷が継いでいるが、豊郷は毛利氏とも関係がよかった上原和智家(世羅郡甲山町、吉舍和智家の分家筋)から吉舎和智家へ養子に入っている。
そのことについて「和智氏系譜」(『閥閱録』巻三〇)は「豊広に嗣子無きにより」としているが、「和智氏系譜」今『近世防長諸家系譜綜覧』)には豊広には元朝という子がいるので、あるいは無理やりの家督相続であった可能性もある。
なお和智氏の 「父城」を毛利氏が受け取っている(「芸備郡中士筋者書出」『県史V』)が、父城とは和智氏の本拠南天山城のことであろう。
『三次市史』から引用。
所感
●陣城の為特別な仕様は無いが土塁が長く拡張されているので注目するべきポイント。
●大永7年(1527)はすでに毛利は大内陣営にいたが、当時三吉氏は尼子陣営に変わっていたと思われる。
●長期間の駐留にて城の徐々に拡張、加工されていったのだろうか。
関連URL
陣城。
参考URL
参考文献
『三次市史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/20