城データ
城名:沼山城
別名:沼之城、沼城
標高:223m
比高:58m
築城年:不明
城主:三吉五郎右衛門 三吉豊後守
場所:広島県三次市十日市町
北緯:東経:34.794020/132.845766
攻城記
旧雲州石州街道が通っており重要な街道の見張りをしていたと思われる。
沼山城全景。
最初の曲輪(麓からすぐに上がれる)
その上の2曲輪(藪化でどうにもならない)
本丸跡。
高低差がある。
本丸奥。
別の角度からの本丸。
思ったよりも広い。
open-hinataより【沼山城?】
余湖図【沼山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【沼山城】
拡大図。
城の概要
1・2郭の周囲に郭がめぐり、さらに北方に郭が連なっている。
眼下に旧雲石道が通っており、これとの関連も想定できよう。
なお、城主は三吉氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
この沼山城が古文書には出てこないが三吉氏の家系図などに城主が記載されている。
本城跡(三段田城)の築城については文献などがないため詳細は不明であるが,城跡の諸特徴からみて室町時代後半に比定されることは前述したとおりである。ところで江田氏が滅んだ天文22(1553)年以後においては,酒屋及びその周辺において寵城が可能な城が築かれた様子はなく,三吉氏の所領が旧江田氏の所領を併せて東方に拡大され,弘治3(1557)年の連署起請文案(毛利家文書225号)や,元亀4(1573)年の三吉隆亮,広高父子が毛利輝元に提出した起請文(毛利家文書328号)にみられるように,三吉氏は毛利氏に従うことによって周辺諸氏との関係も安定したことが窺われ,天文22(1553)年以後に酒屋の地に新たに城を築く理由は見い出せない。
また,天文10(1541)年三吉氏が尼子氏から離反した以後とすると,三吉氏にとっては,比叡尾山城と周辺の諸城及び尼子氏が侵攻してくる北方の要所に諸城を築き,防備を堅固にすることがもっとも重要になっていたと推定される。
すなわち,本城跡(三段田城)の築城を必要としていた時期は,尼子氏の勢力が後退していく時期ではなく,高橋氏及び毛利氏との間に争いと,尼子氏の進出によって県北部一帯の緊張が増幅した時期で,三吉氏にとって地理的な要地である酒屋の地を他氏の侵略から防ぎ,支配をいっそう強化する必要が生じたことによるものとみられる。
なお,酒屋の地における諸城跡は,天文22(1553)年の江田氏の滅亡と共にした新宮山城跡の例からすると,小規模ではあっても所領の支配のため,家臣や一族を配置し,存続して利用していたと推定される。
『三段田城跡発掘調査報告書』より一部引用加筆修正。
城主家系図
五郎右衛門のつぎに豊後守が城主となる、豊後守はその後勝山城に入城する(1591年頃か)
三吉五郎右衛門
家系図に三吉郡原村沼城主とある。
三吉豊後守
初めは新四郎、松之助で豊後守に改めた時に沼之城主に移るとある。
その後の沼山城がどうなったかは不明。
所感
●城の麓には沼があり、それが城名の由来か。
●沼の東には旧雲石街道もありここが交通の要所であり、見張りの機能を有していたかもしれない。
●城の規模は思ったよりも大きく、短期間なら籠もって戦える。
●曲輪の加工度も高く、削平地も多い、また造りの丁寧。
関連URL
近隣の山城。
参考URL
参考文献
『三段田城跡発掘調査報告書』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/19