城データ
城名:船山城
別名:無し
標高:240m
比高:25m
築城年:不明
城主:相合元綱
場所:広島県安芸高田市吉田町相合
北緯:東経:34.673520/132.697508
攻城記
船山城跡.船山社
高田郡吉田町左円
この細声峠の左側の山が船山で、この丘陵上に船山城跡がある。
郭は東西に延びる尾根上に直線に並び、中央の 堀切によって東西の郭群に分かれる。
本城跡は、毛利元就の異母弟相合四郎元網 が住んでいたが、一五二四(大永四)年元就の 本家相続の際、元就に反逆を企てたかどにより誅せられた。
(相合の明善寺の近くに相合四郎の墓と伝えられる五輪塔がある。)
ほこら 右上にある祠は、元綱の霊が成仏せず崇りをするので、村人が船山権現社として祀り、その霊を慰撫したものである。
今では、左円地域の人々の守り神として祭られ毎年一〇月一〇日に例祭が 行われる。
一九九七(平成九)年三月
吉田町教育委員会
比高25m。
すぐに曲輪に着く。
城域は2区画になっている。
帯曲輪。
本丸中央にある墓石、相合元綱のものではなさそう。
石列の残骸か。
曲輪跡。
西側の高まり。
眼下を臨む。
細越峠。
細越峠の東にある船山神社。
相合元綱墓所
位置関係
余湖図【船山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【船山城】
拡大図。
城の概要
郡山から西に延びる丘陵先端に位置しており,背後は掘り切って独立丘陵状にしている。
郭は東西に延びる尾根上に直線状に並び,中央の堀切によって東西の郭群に分かれる。
東側郭群は頂部の長大な郭と東・南斜面の三つの帯邦からなる。
西側郭群は中央堀切側に土塁を持つ主郭と西側先端に馬蹄形状の郭を配し、その間を一段低い郭としている。
本城跡は,1524(大永3)年,毛利元就の本家相続の際に弟の相合元網がこもった城と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
大永4年(1524):毛利元就の弟である相合元綱が謀反の疑いにより、元就に攻められて落城。
城主家系図
見附氏が詳細不明、ウッキペディアに出るだけで他の資料に出てこない。
ただし、多治比地区には見附姓の方が数軒あり、弘元が多治比猿掛城に隠居後にもうけた子どもの可能性も否定できない。
相合元綱には元範という子どもがおり、敷名姓に改名、その後子孫は前原姓や馬屋原姓に改名している。
相合四郎2名存在説
毛利弘元の3男で本来は相合元綱が「相合四郎」であるが、その弟である北就勝も「相合四郎」と呼ばれた可能性がある。
●元綱は亡くなる1524年までは「相合四郎」元綱であったが。
●その後、元就に討たれ、僧侶であった四男である就勝が相合の地を賜る。
●彼は四男であったので四郎を名乗る、そして相合の地にいたので「相合四郎」と呼ばれることとなる。
●つまり「相合四郎元綱」と「相合四郎就勝」の2名の人物が存在している。
●実際に現地でも元綱ではなく就勝の墓と認識されている場合もある。
所感
●後世に墓地として使用されており、改変の可能性もある
●城自体は小さく、ここに立て籠って勝てるとは思わないが、在地領主として監視する城だったと思われる。
●相合四郎が2名いた説は興味深い。
●江戸時代には北就勝が謀反を起こしたと誤解されていたが『新裁軍記』により違うと否定されている。
関連URL
反乱の首謀者であった坂氏の城。
反乱の責任を取り桂広澄が自刃する。
反乱に与していたとされる渡辺氏の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/12