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城データ

城名:猿掛城

別名:多治比城

標高:436m

比高:186m

築城年:明応年間(1492〜1501)に毛利弘元によって築かれたと伝わる。

城主:毛利氏

場所:広島県安芸高田市吉田町多治比

北緯:東経:34.676761/132.663227

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

麓からお寺辺りまでは車でいける。

教善寺、ここに当時館があったらしい。

出丸に進む。

出丸跡。

多治比猿掛城出丸跡

出丸は、平城と呼ばれ、尾根先端のこぶ状にふく らんだところに位置し、水田面から比高50m、面積 は狭いが、独立性の強い城の構えである。

 

遺構は、尾根頂部の本丸を中心に、南西側に二の丸、三の丸を加えたものである。

 

本丸は、長さ50m 幅20mの平坦面としたもので、北半に長さ17m、幅10mの櫓台状の高まりがある。

 

本丸の南には12m、12mの方形曲輪に帯曲輪に帯曲輪をつけた二の丸、 その西には幅7m、長さ約50mの三の丸があり、こ れは帯曲輪となっ て、さらに北側へま わっている。

 

当初の猿掛城はこの出丸と呼ばれる部分で、その後、 類似の曲輪を配した山上に移し城を構 え、さらに守りを固 めたものと考えられる。

 

平成三年三月

吉田町教育委員会

 

出丸から眼下を臨む。

本丸に向かって登っていく。

見下ろす。

山の中腹に削平地が重なるように広がる。

本丸跡。

土塁。

見下ろすと大堀切がある。

戻って逆方向から見る。

多治比川から見る猿掛城(出丸部分)

全景。

 

多治比 猿掛城跡

名称 毛利氏城跡多治比猿掛城跡
指定年月日 昭和63年2月16日

多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。

 

築城から廃城までの歴史的な経過は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。

元就は4歳のとき、明応9年(1500)家督を長子興元い譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。

遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる。中心部曲輪群を置き、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀も見られ、谷をはさんで出丸がある。

山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。

城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す貴重な城跡である。

平成元年3月

吉田町教育委員会

 

 

悦叟院(毛利弘元菩提寺)

中央の墓が毛利弘元で左が妻の墓。

戦国大名とは思えないほど小さな墓であるが、毛利の所領では墓が造られない傾向にあり、この墓も戦国末期に供養塔として造られたのかもしれない。

 

物見丸跡

悦叟院から登っていく。

本当にこの方向でいいのか不安になる。

かなりの比高である。

道っぽいのがあるので大丈夫。

とりあえず発見した。

堀切か。

このまま進むと猿掛城の本丸二いけると思い進む。

そして道が無くなる。

不安になる。

ただこんな人工的な石垣を見てここは城域なのかと期待と混乱で判断がおかしくなる。

そして自分が遭難していることに気づく。

あとは来た道を戻るが当然同じところに戻れることはなく、錯乱状態の中麓に降りる。

 

位置関係

 

余湖図【猿掛城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【猿掛城】

拡大図。

 

城の概要

大きく分けて,山頂の「物見丸」,丘陵先端の「中心部郭群」,「中心部郭群」から約60m下った斜面中腹の「寺屋敷郭群」,平野部に半島状に突き出した「出丸」の4群に分けられる。

 

「物見丸」の遺構は尾根頂部を約15m四方の郭とし,西方は帯郭,北方は浅い堀切を隔てて約25×20mの郭を配している。

 

「中心部郭群」は,頂部に約50×24mの郭を置き,背後(南側)に高さ1mの土塁,前方に高さ3mの櫓台状の高まりがある。

 

尾根続きは比高13mの堀切で区画し,周囲の斜面下には小郭を配している。

 

「寺屋敷郭群」は中心部郭群の西端から下る,幅6〜7m,深さ2m,長さ約130mの竪堀によって中心部郭群から隔絶された郭群である。

 

この郭群は中央上方にある40×20mの郭(寺屋敷)を中心に,北方に延びる支尾根上に階段状に四郭,それを取り巻く帯郭が八郭,さらに寺屋敷

から上方に竪堀に沿って三郭の計十五郭から成る。

 

現在ではこの下段に1536(天文5)年創建といわれる猿掛山教善寺があり,当初はこの辺り一帯が寺屋敷として造成されたとも考えられる。

 

「出丸」は頂部に約50×20mで櫓台と土塁を備えた郭を置き,その南に12m四方の郭と帯郭,西から北にかけては幅7m,長さ50mの帯郭がある。

 

本城跡は,1500(明応9)年に毛利弘元が郡山城を嫡子興元に譲り次男元就をつれて猿掛城に隠居し,以後元就が郡山城に移るまでの間過ごした城といわれている。ただ,明確な史料は見られず1523(大永3)年毛利元就が「多治比御城」にいたことがしられ,これが猿掛城に比定され掛城」の呼称は江戸時代の軍記物や地誌に初出する言葉である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

猿掛城

猿掛城は、吉田盆地から多治比川に沿って上った北西方約五畑にある山城で、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。

 

位置としては、吉田盆地の北西方にあたり、多治比川によって開けた小さな に見下ろす丘陵上にある。

 

標高は三七〇m、比高は一二〇mと丘陵自体はそれほど高くないため、背後の山頂にある物見丸以外では展望はあまりきかず、わずかに多治比地域が見渡される程度であることから、この地域のみを支配するための城ということができるが、この地は、古くから多治比保三百貫といわれているように小村でそれほど大きな耕地はない。

 

城は、元就が青少年期を過ごした城として知られているにもかかわらず、その創建から廃城までの歴史はかならずしも明らかではない。

 

確実なのは明応九年に、元就の父弘元が郡山城を嫡男興元に譲って猿掛城に元就(松寿丸)を伴って隠居し、以後、大永三年(一五二三)、元就が郡山城に移るまで在城したということであるが、多治比保が毛利氏領となったこと自体が弘元の代の明応 年間とされていることから、その頃、弘元によって築城された可能性が強い。

 

また大永三年、元就の郡山城移住後についてもまったく不明だが、位置的に城が石見路に面していること、元就の在城期間に比して城郭の規模がきわめて大 きいことなどから類推して、元就の移城後も領地内の要所を押さえる意味で、 城地の拡大・整備が続けられたものと考えられよう。

 

城の遺構は、鳥帽子山(標高五二九m)から北へ延びる丘陵尾根上を利用し造られたもので、急峻な崖状をなす尾根先端部に本丸・二の丸など 要郭群、それより南方約五〇〇mの尾根頂部に物見丸、北方丘陵部の 出丸を配置している。

 

中心部の郭群は、南側背後を二本の空堀で区切って守りを固めたもので、他 の北・東・西方は急峻な崖となっている。

 

頂部には長さ約五〇m×幅二〇mの長大な平坦面を持つ二の丸があり、その先端の東北・西北隅にはそれぞれ控郭、さらに西側大手道に沿っても二、三の郭を配置している。

 

二の丸の平坦面の北端には、それより約三mも高くした径約一〇mの平壇があり、本丸とされているが、小規模で物見的様相が強いことから、むしろ二の丸が主郭であったといえよう。

 

なお、二の丸南端の空堀に面しては、低いながら土塁をめぐらしている。

 

また、これから北方の出丸へ通じる大手道に沿っては、竪堀状の窪み小郭を造成しかけたと考えられる小さな平坦石が並んでおり、さらに下ると、寺屋敷と呼ばれる広大な平坦面を中心とした下部の郭群がある。

 

これには天文五年(一五三六)の創建といわれる教善寺が建っている郭、寺屋敷など大きなも のが多く、小さな郭もそれに付随しており、乱雑な郭の配置がみられる。

 

出丸は、猿掛城のある丘陵末端の水田面からの比高約五〇mの低い独立丘陵 の頂部にあるもので、中心部の郭群とは繋ぎの郭で結ばれ、頂部に一辺約二〇 mの本丸、二ヵ下ってそれを取り巻く形で長さ約五〇mの二の丸、さらに南側 には三段の郭を配置してほぼ輪状に郭を連ねている。

 

つまり、教善寺との鞍部 を切り落としさえすれば、独立した一個の山城となりうるもので、この郭配置 は中心部の郭群の配置に類似した点が多いことから、当初の城はこの出丸と呼 ばれている部分のみでその後、同様な郭配置で山上にも構築したものとも考えられよう。

 

物見丸は、中心部の郭群の南方約五〇〇mの尾根頂部に位置し、径約一五mの主郭の南側に帯郭をめぐらし、全体を南・北の空堀で独立させたもので、位置的に独立しており、名称どおり物見として使用されたものと考えられる。

 

なお、北側山麓には悦叟院の跡があり、毛利弘元夫妻の墓が残っているほか、 周辺には西方約一皿の独立丘陵上に平佐氏の平佐城、東方約一畑の尾根上には 桜井氏の竹長城があり、東・西の守りとして使われたと考えられ、山麓には見 付・古・市塚・土居・屋敷などの地名も残っている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

明応年間(1492〜1501)に毛利弘元によって築かれたと伝わる。

※この頃この地域を弘元がこの地を手に入れる。

 

明応9年(1500):弘元が隠居して次男の元就とこの城に入城する。

 

文亀元年(1501):元就の母親が亡くなる。

 

永正3年(1506):弘元亡くなる。

弘元が亡くなった時に庶子として、相合元綱、北就勝、見附元氏?や娘らがおり、この城に滞在していたのかもしれない。

 

この頃兄も京都に在住しており、家臣の井上元盛に所領(多治比300貫)を奪われる、城から出されたとも。

 

永正8年(1511):この頃井上元盛が亡くなり、所領の回復、及び城に復帰か。

 

永正14年(1517):有田中井手の合戦で武田元繁と戦い、多治比の地が戦乱に巻き込まれる。元就も猿掛城から出撃する。

この頃元就の妻妙玖と結婚か。

 

大永3年(1523年):隆元が生まれる。毛利家の家督相続をして吉田郡山城に入城する。

 

城主家系図

初代城主が弘元で2代目が元就。

元就以下は弘元と側室との間に出来た子どもで何人かは猿掛城で養育されたかもしれない。

 

城主(一族)石高

元就が城主になった頃は多治比300貫と云われており、少ない石高であったと云われている。

 

所感

●隠居した後の城と思っていったが、とても堅牢であり防禦機能も高い城であった。

 

●おそらく西の高橋氏を意識して、この地に城を構えて対抗策としたのかもしれない。

 

●悦叟院から物見台に行きそのまま猿掛城にいこうとして遭難したが、この時山城の怖さを思い知った。

 

関連URL

【広島県】吉田郡山城【安芸高田市吉田町吉田】

本城である吉田郡山城。

 

参考URL

文化財動画紹介 多治比猿掛城編01「出丸」

文化財動画紹介 多治比猿掛城編02「毛利弘元墓所」

文化財動画紹介 多治比猿掛城編03「本丸」

文化財動画紹介 多治比猿掛城編04「堀切

多治比猿掛城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸猿掛城)

西国の山城(猿掛城)

毛利弘元(ウッキペディア)

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/12

 

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