城データ
城名:吉田郡山城
別名:郡山城
標高:402m
比高:200m
築城年:建武3年(1336)に毛利時親により築城されたと云われる。
城主:毛利氏
場所:広島県安芸高田市吉田町吉田
北緯:東経:34.673693/132.709593
攻城記
比高200mあり。
郡山城は、南北朝時代の建武三年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。
郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は1km四方に広がる。遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。
天文九年(1540)九月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利勢は小勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。
天正十九年(1591)輝元の広島城移築後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。
郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。
ここで元就が火葬された。
毛利隆元墓所。
城に行く前にある。
尼子氏が1540年に攻めてきた時に陣取った山城がみえる。
いよいよ城域に入る。
まずは毛利家墓所。
静寂に包まれている。
因みに初代から豊元の墓はどこあるか不明。
有名な百万一心の石碑。
毛利元就墓。
毛利家の墓は石塔が無い。
潚岳禅師の墓。
さあ本格的に登っていく。
御蔵屋敷跡。
釣井の壇。
姫之丸跡。
釜屋の壇跡。
三の丸跡。
二の丸跡。
本丸跡。
嶝(かさ)と呼ばれる部分。
嵩からの光景。
勢溜の壇跡。
満願寺跡。
妙寿寺曲輪群跡。
尾崎丸跡。
尾崎殿=毛利隆元
眼下を臨む。
旧本城
南北朝~室町時代の典型的な城。
尼子方の陣城がはっきりとわかる。
清(すが)神社
1325年当時の棟札を有している。
郡山城石垣(三の丸付近)
立石がある。
当時はかなり高い石垣があったと思われる。
別の部分にも若干の石垣があった。
位置関係
余湖図【吉田郡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【吉田郡山城】
拡大図。
城の概要
戦国大名毛利氏が本拠とした城である。
城の遺構は,約1km四方に及ぶ郡山全域に広がっている。山頂部の中枢郭群を中心に放射状に延びる6本の尾根とそれらから延びる6本の支尾根の合わせて12本の尾根と,それらに挾まれた12本の谷に,合計270もの郭が設けられている。
これらは堀切によって,山頂部分の中枢部,中枢部から周囲に延びる尾根上を谷や堀切等によって区画した内郭部,内郭部から派生した尾根を利用しそれぞれを独立的に配置した外郭部,さらに郡山城全域を取り囲む山麓部の堀までの周縁部の四重構造を成している。
中枢部郭群は「本丸」「二の丸」「三の丸」「御蔵屋敷」などから成る。「本丸」は一辺約35mの方形で北側に檜台がある。
「二の丸」には「三の丸」側に虎口を開いた築地の基礎と考えられる石塁がめぐっている。
「三の丸」は城内最大の郭で内部を石垣,石塁で3分割されおり,「街藏屋敷」や西下の帯郭へ続く通路が取り付き,虎口郭的なあり方を示している。
なお,中枢部郭群からは輸入阿磁器,備前焼などの国内産陶磁器,土師質土器,瓦が採集されている。中枢部郭群は総石垣,林形を成す虎口の構造,瓦葺き建物など新しい技術が用いられており,これらは天正年間の改修と考えられる。
内郭部は「釜屋の壇」,「厩の壇」,「妙寿寺」,「満願寺」,「勢溜の檀」,「釣井の檀」,「姫丸壇」などの郭群によって構成され,その基部は中枢郭群を囲む通路で輪状に結ばれている。
これらの郭は石垣や石塁の使用は顕著ではなく,中枢部郭群とは構造を異にしている。
内郭の外にも多数の郭があり,外郭を構成している。外郭部は南側の「矢倉の壇」,東に延びる尾根筋上に「尾崎丸」,さらにその先端部には「本城」がある。
背後には「釜屋の壇」の先端を堀切で区切って独立させた「羽子の丸」,さらに背後の甲山との鞍部に設けられた「千浪郭」などがある。千浪郭は町道改良工事に伴う発掘調査が行われており,掘立柱建物跡などが検出されている。
「本城」は1336(建武3)年,毛利時親が吉田に移ったときに築かれた城とされており,背後を三条の堀切で画して独立させている。
本丸は一辺37mの不整形な郭で,背後に櫓台をもつ。その東下には70×13mの長大な郭があり,その東は浅い堀切を挟んで二つの郭,さらに浅い堀切状の郭を挾んで東に郭を連ねている。
郡山城の周囲には内堀,外堀があったものと推定されているが,内堀の位置は試掘調査,地籍図,航空写真などで確認されている。
この内堀に囲まれた山麓部分が周縁部で,毛利元就の館といわれる「御里屋敷」や毛利氏の氏神社である「清神社」などがあり,この他にも近習衆の屋敷があったものと推定されている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
建武3年(1336):毛利時親により築城。
文和元年(1352):元春が北朝に叛旗を翻し、北朝方の安芸国守護である武田氏信と戦い吉田城に籠るが降伏する。
※ただし、この吉田城が郡山城かどうかは不明。
『吉川家文書1053』
大永3年(1523):毛利元就が家督を継ぐ、この頃から山全体を城塞化していく。
天文9年(1540):尼子晴久が吉田郡山城を攻めるが耐える(城兵及び村人8000人を収容したと云われる)
元亀2年(1571):毛利元就死去し輝元が継ぐ。
天正19年(1591):輝元が広島城に本拠を移動する、城自体はまだ機能していたと思われえる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏は萩に転封し、代わりに福島正則に城主が変更、吉田郡山城も福島氏の管轄となる。
元和元年(1615):一国一城令にて廃城となる。
寛永14年(1637):島原の乱の後に徹底的に壊される。
城主家系図
元春は通称郡山殿と呼ばれており、彼が旧本城を本拠としたのではないか。
元就時代に旧本城から山全体を城塞化して270以上の曲輪を増築し、家臣を住まわせた。
所感
●山全体が城塞化しているが、実はこの曲輪の多くに家臣が住んでいたらしく、戦の為というよりか居住空間も兼ねていた。
●山の中に寺があるのは珍しいが、この城自体が生活スペースであったのなら理解できる。
●三の丸麓の石垣は豪華であり、現存しておれば、雰囲気も違っていたと思う。
●当時の様子をイラストやVRなどで再現して欲しい。
関連URL
西端にある弟が居城していた船山城。
郡山城以前に居城していたかもしれない琴崎城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/12