城データ
城名:阿賀城
別名:赤城
標高:485m
比高:220m
築城年:不明
城主:阿賀氏、井上光貞、井上左馬え助
場所:広島県安芸高田市八千代町下根
北緯:東経:34.597439/132.598466
攻城記
看板もあり分かりやすい。
目指すはあの山。
安芸高田市史跡指定
阿賀城跡
中世、阿賀氏の居城があり、 後代、毛利元就の家臣 井上越前守光貞、左馬え助就任 親子二代の居城であったと伝えられている。
現存する殿前という地名は、 城主が平時に居住していた館の跡である。
頂上には古井戸跡・本丸跡等があり、 中世山城研究の為の貴重な遺跡である。
下根振興会
整備されており分かりやすい。
比高があるので一歩一歩進む。
道は歩きやすい。
山頂に到着。
景色がとても良い。
本丸部分。
井戸跡。
眼下を臨む。
曲輪跡。
北方面。
この延長線上に吉田がある。
余湖図【阿賀城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【阿賀城】
拡大図。
城の概要
1郭は約50×20mの長方形で,南半は土塁に囲まれその一角に井戸が残る。
この1郭を中心に2〜4郭が120mに渡って直線状に並ぶ。東に派生する尾根を加工した5郭は登城路のある南縁に削り出しの土塁を25mに渡って設けている。
南麓からの登城路は1郭南西の鞍部で土塁囲みの小郭に入り,さらに山腹の坂道を100m進んで山頂郭群に至る。
城主は阿賀氏で,戦国期以降は毛利家臣の井上氏の居城となる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状に井上就在がいるがこれが左馬助になる。
『毛利家文書248』
これから想像するに、毛利中の中でもかなりの力を持った人物だと想像できる。
享禄5年(1532):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名の中に井上就在がいる。
『毛利家文書396』
これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。
彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。
この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。
彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。
『知将 毛利元就』51頁より。
天文19年(1550):毛利元就の井上衆の誅殺時にこの井上一族は誅殺のメンバーから逃れており引き続き家臣として存続する。
同年12月21日に安芸国坂村の内で「国末名」を給地として与えられている。
『萩藩閥閲録井上彦右衛門巻95-6』
弘治3年(1557):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した中に井上三郎五郎がいる。
『毛利家文書402』
井上三郎五郎が軍勢狼藉禁止令に従うことを誓約した毛利氏家臣団の連署起請文に加わる。
防長経略により大内氏を滅ぼした元就は吉田に帰った、しかし、その後大内氏の遺臣たちが義隆の遺児を擁立し籠城した為に、再度大内氏遺臣達の残党を打ち破るべく長府へ出発した、その後元就らが富田(周南市)に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており元就らも12月には吉田へと帰った。
この起請文は12月2日の日付であり、軍の規律を厳しく統制することが伺える、その中で井上三郎五郎が記載されている。
注:この井上家の通称は「五郎三郎」なのでこの「三郎五郎」は違うかもしれないが念のために記載しておく。
城主家系図
満光、元方共に通称は五郎三郎、彦右衛門であり就在も最初は五郎三郎を名乗っていた。
城主石高
『毛利八箇国御時代分限帳』に井上彦右衛門として229.939石とある。
所感
●城の比高も高く、領内をしっかりと見渡せる。
●城の造りとしては一般的なものであるが、井戸跡も残っており見ごたえある。
●地元の方が整備をしっかりとしており登りやすい。
●井上一族は大いに繁栄したが傲慢になり、天正19年に多くの一族が誅殺された、しかし、就在の一族は誅殺を免れた。
関連URL
同じ井上一族の城
参考URL
参考文献
『知将 毛利元就』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/05