城データ
城名:長見山城
別名:無し
標高:241m
比高:50m
築城年:南北朝時代
城主:渡辺氏
場所:広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見
北緯:東経:34.660755/132.736025
攻城記
細長い山に築城されていた。
長見山城址由緒
延文2年中村澄晴築城、康暦元年孫元定高原庄に移る
後毛利家臣渡辺氏入城
大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い 郡山に於いて殺されその家族七人亦内長見山土居に於いて殺され 男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り 後許されて飯城大いに軍功あり
其子飛騨守慶長五年毛利氏防長移封の際従い 之に移り余後廃墟と化す
昭和四十六年四月吉日
渡辺媛夫氏夫妻の特志により建立
比高も低くすぐに登れる。
頂上まではすぐ。
山頂からの風景。
本丸部分。
周辺部。
渡邊七人塚
渡邊七人塚
毛利元就の本家相続後、元就の弟の相合元綱を擁立しようとした坂・渡邊一派は、密かに尼子の老臣亀井秀綱などと通じて機をみて元就を除こうとした。
元就は早くもこの陰謀を探知し、元綱を殺すとともに、その一味を自殺させ、渡邊長門守勝については、郡山城において殺害。内長見に居住していた渡邊氏一門7人を殺害させた。
七人塚は、その一門を葬ったといい、石塔4基、桜1本、榎2本を植えて墓標とした。
このとき、渡邊勝の長男虎市は、家臣に守られ備後山内家に保護され、成人の後許されて毛利家に帰参し、渡邊太郎左衛門通(とおる)と名乗り家名を再興した。
現在は石塔1基が移設され、5基となっている。それぞれの墓標の詳細については不明。また、桜・榎は現在枯死している。
甲田町教育委員会
渡辺家臣のもの。
余湖図【長見山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【長見山城】
拡大図。
城の概要
戸島川沿いの沖積地にある比高約40mの独立丘陵上に位置する。
丘陵は北東から南西に約700mにわたって細長く延びており,遺構はその中央部の山頂郭群と,釣井が鼻と呼ばれる南西端の郭群からなる。
山頂郭群の各郭は,加工度が低く自然地形に従って不整形であるが,大規模である。また,山腹斜面に構築された17条の竪堀群が注目され,このうち1郭北西側のものは畝状になっている。
堀切は四ヶ所あり,このうち1郭南西側の釣井が鼻郭群へのルート上に設けた堀切には土橋がある。
東端の2郭以東はわずかな上り斜面となるが,防御のための施設は認められない。
鼻郭群は丘陵先端にかけて階段状に五つの郭を置いている。最高所の3郭の東設けている。
城主は渡辺氏である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
長見山城
長見山城は、甲田町小原の沖積地にある小独立丘陵を利用した丘城で、南北 朝期以後、毛利氏の重臣としてこの地にいた渡辺氏の居城であった。
城主である渡辺氏は、建武三年(延元元、一三三六)に毛利時親が吉田に下向した際、それに随従し、重臣として毛利氏に代々仕えたが、渡辺次郎左衛門の代の大永四年(一五二四)には、坂上総介と謀って主家の毛利元就の弟を企てたことから、元就によって滅ぼされた。
渡辺氏と長見山城の記録もその時に消滅し、詳細については明らかでない。
ただ、長見山城の山には渡辺氏の屋敷跡があり、渡辺氏一族を葬ったといわれる渡辺七人塚も、この地に残っている。
当城の遺構は、東西に延びる小独立丘陵の中央を空堀で区切って、頂部に四段の郭を階段状に並べたものである。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
建武3年(1336):毛利時親の吉田下向時に伴い随従した。
大永3年(1523):毛利元就の家督相続の連署起請文に署名した15人の宿老の一人。
大永4年(1524):渡辺勝が毛利元就の弟である相合元綱を擁立しようと謀り誅殺される。
※この時嫡男の渡辺通は母親の実家である山内氏に匿われる。
天文4年(1535):この頃、渡辺通が毛利氏に復帰する。
※長見山城に復帰したかは不明。
天文12年(1543):大内軍が尼子氏の富田城を攻めるが、敗戦して撤退する、その時に毛利軍も撤退するが、尼子軍に攻められると、通は元就の鎧を身に着けて身代わりになり討死する。渡辺長が家督相続する。
城主家系図
渡辺通の母親は庄原元祐の娘であるが、庄原氏は宍戸氏の庶流で、宍戸元家の弟である元重が庄原に下向して在地名から庄原元重を名乗る。
とあるが、実際には甲立村の隣にある高田原村荘原という場所に在住していることが『宍戸記』に記載あり。
渡辺氏の長見山城と宍戸氏の五龍山城は隣であり、近隣との縁組から宍戸氏の一族であった庄原元祐の娘と婚姻関係を持ったのかもしれない。
宍戸氏家臣にも庄原左近大夫、庄原七郎次郎らがいる。
毛利家文書375の一部。
また、宍戸氏自身も山内氏の娘と婚姻関係を結んでいる。
城主石高
渡辺飛騨(長)
2209.206石
渡辺五郎右衛門(元)
544.230石
所感
●国衆の家臣としては立派な規模を有している。
●山頂への比高も50mと楽に行くことが出来る。
●近隣と婚姻関係を結んでおり、元の妻も近隣の井原氏や赤川氏から嫁いでいる。
関連URL
参考URL
参考文献
『宍戸記』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/23