城データ
城名:御薗宇城(みそのうじょう)
別名:御園宇城
標高:276m
比高:30m
築城年:弘安年間(1278~88)
城主:平賀氏
場所:広島県東広島市高屋町高屋堀
北緯:東経:34.471210/132.800717
攻城記
広島県史跡 平賀氏の遺跡
御薗宇城跡
昭和44年(1969)4月28日指定
御薗宇城は出羽国平鹿(ひらが)郡から西遷した平賀氏の居城です。
鎌倉時代末期にはすでに築かれていたらしく、以後文亀3年(1503)白山(しろやま)城に移るまで約200年間平賀氏の本拠地となっていました。
新守護として安芸に下った山名満氏は、安芸国人衆と対立し、応永10年(1403)十代平賀弘章の時、山名氏は御薗宇城を攻め囲み、合戦は3年にわたる長期戦となりました。
その間、弘章の子共益、惟益、惟元らは討死しましたが、安芸国人衆の応援により持ちこたえて、山名氏を退けることができました。
城は防御と居住を兼ねた館城で、南に伸びた低丘陵を切断し、3段の平坦な曲輪と、それを三方から馬蹄状に囲む土塁状の曲輪からなっています。
この付近には馬場や番匠免、トギ、カジヤなどの地名や、墓地が「平賀氏の遺跡」として広島県史跡に指定されている明道寺、また円福寺跡などの寺跡があり、御薗宇城を中心にして中世の面影を残しています。
御薗宇城は鎌倉時代末期の形式を今に伝える貴重な城跡です。
平成4年(1992)3月31日 東広島市教育委員会
削平地。
ここも曲輪跡か。
非常に急峻。
見下ろす。
本丸部分。
馬蹄型の館跡になっている。
ふもとに降りて見上げるとやはり比高がある。
周囲が全てこのような感じではなかなか攻めあぐねるのも分かる。
平賀氏の墓地【明道寺跡】
平賀氏の墓地は、中世の高屋地域の在地領主の墓地で、その菩提寺であった「明道寺」の跡といわれています。
平賀氏は出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市の大部分)から安芸国に移り、平賀氏の墓地から東南約500mの御薗宇城を居城としました。この墓地には、宝篋印塔や五輪塔、石仏が約40基あります。
入ってすぐ左手の最も大きな宝篋印塔は、塔身に梵字と「天巖」の刻銘があります。
江戸時代の地誌「芸藩通志」には、「天巖」は十七代平賀隆宗の法名で、これが隆宗の墓と記されています。
さらに、隆宗の墓と並んで「一如妙」と刻まれているのは、隆宗の妻の墓であると書いてあります。
この他に、塔身に梵字と「真岳」の字が刻まれている宝篋印塔は、十五代平賀弘保の墓といわれています。
弘保は、文亀3年(1503)に御薗宇城から白山城に本拠を移し、さらに、大永3年(1523)に頭崎城を築いています。
弘保はその後、永禄元年(1558)に没しています。
平賀隆宗は弘保の孫で、天文18年(1549)神辺城攻めの陣中で病没しました。
平賀隆宗の墓。
open-hinataより【御薗宇城】
余湖図【御薗宇城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【御薗宇城】
拡大図。
城の概要
本城跡は,北から南へ下る低丘陵の先端部に位置する。
は,背後(北側)に設けられた櫓台状の1郭とその南下の4郭,4郭の東と西に土る2・3郭,2〜4郭の南下にある5郭からなる。
弘安年間(1278〜1287)に平賀氏が築城したと伝えられ,16世紀初頭に白山城に移るまで使用されていたと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
【城 史】
御薗宇城跡が所在するこの地域は、中世には高屋保と 呼ばれていた。
城主の平賀氏は、出羽国平鹿郡を名字の地とする西遷御家人である。
弘安年間(一二七八〜一二八八)には御菌宇城を築いて移住したと伝えられる。
南 北朝時代を通じて勢力を拡大し、室町期には幕府の奉公衆に列せられるなど、安芸国有数の国人に成長した。
城跡が所在する高屋堀地区には、多くの菩提寺跡のほか、戦国期の起請文にも登場する七社神社、市場や職人 の居住を示す地名が残り、長く平賀氏の本拠地であった 痕跡を色濃く残す。
応永十一年(一四〇四)、山名氏の安芸守護就任に反発した安芸国人三十三名は、反守護で団結し、一揆契状 を結ぶ。
著名な応永の安芸国人一揆である。
この一揆の 指導者の一人が平賀弘章である。
弘章は居城に守護軍を迎え撃ち、緒戦で三人の息子を討死させながら、三年の 籠城に耐え、遂に守護軍を撃退した。
この時の居城が御薗宇城とされる。
戦国時代初頭の文亀三年(一五〇三)、平賀弘保は御薗宇城跡の東南約三キロメートルの白山城に居城を移し、 御薗宇城の本拠としての役割は終わった。
その後、御薗宇城には重臣を配したと伝えられている。
『安芸の城館』から引用。
城の歴史
弘安年間(1278~88):平賀氏が下向して城を築く。
応永10年(1403):守護である山名満氏が平賀弘章の籠る御薗宇城を包囲する。
応永11年(1404):「安芸国人一揆契状」を結び対抗する。
応永13年(1406):この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死するが山名満氏を撃退する。
文亀3年(1503):白山城を築き移動する。
城主家系図
城主石高
平賀氏の所領として14,251.652石とある。
所感
●鎌倉時代の城であり館という方がぴったりくる。
●比高も低く、守護家の軍勢を持ってすれば簡単に落城しそうな感じもするが3年間持ちこたえた。
●周囲を回ったが急峻な地形で登るには苦労しそうであり、確かに攻めにくそうではある。
●1503年に白山城に移り居城としての役目を終える。
関連URL
中期の城。
後期の城。
参考URL
参考文献
『賀茂郡史 中世武士編』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/19